総会

法制史学会 総会

法制史学会第72回総会・研究大会のご案内

新型コロナ感染症の拡大にともない、大変長らくお待たせしておりました法制史学会第72回総会・研究大会を下記の要領でオンライン(Zoom meeting)により開催いたしますので、ふるってご参加下さいますよう、ここにご案内を申し上げます。(なお、既に参加申込書にも記載の通り、司会者・報告者は拠点会場には参加されず、全てオンライン上での報告となりますことをご了解下さい。2021年10月16日追記)

 

1 研究大会

[日時]第1日 2021年11月6日(土)9時50分開始
第2日 2021年11月7日(日)9時45分開始

[拠点会場]同志社大学今出川キャンパス・良心館1階・RY-107講義室
今出川キャンパスにつきましては、同志社大学HP上の「キャンパスへお越しの方」(https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/imadegawa.html)をご参照下さい。

[参加費]この度は頂戴いたしません。

【特設ページA入口はこちら

 

2 第72回総会

[日時]第1日 2021年11月6日(土)16時20分〜17時50分

【特設ページB入口はこちら(11月開設予定)】

 

3 懇親会

申し訳ございませんが、オンラインでも行わないことといたします。

 

4 第72回総会準備委員会の連絡先

〠 602−8580 京都市上京区今出川通烏丸東入 同志社大学光塩館法学部研究室事務室気附
法制史学会第72回総会準備委員会 代表 西村 安博
当日緊急連絡先:(075)251-3015(同志社大学正門・門衛所)
e-mail:jalha72@mail.doshisha.ac.jp(ご連絡の際には、e-mailをご利用下さい)

 

5 参加のお申し込み

上記「1 研究大会」に記載の「特設ページA」に参加申込書のファイルを貼り付けておりますので、会員の皆さまにおかれましては、参加申込書のファイルをダウンロードしてください。そのファイルに必要事項をご記入の上、10月27日(水)までに、上記の準備委員会アドレス宛てにメール添付によりお送りください。参加申込書は入退室の管理の上で必要となりますので、必ずご提出頂きますようお願いいたします。なお、「特設ページA」に入って頂くためのパスワードなどにつきましては、会員の皆さまに郵送した学会案内の中でご説明しております。

非会員の皆さまでご参加を希望される場合には、10/27(水)までに、上記e-mailアドレス宛てにその旨をご連絡頂きますようお願いいたします。事前のお申し込みがない場合にはご参加頂くことが出来ませんので、ご注意ください。

 

6 オンラインによりご参加頂く際のご案内

・研究大会に参加される際のZoomリンクにアクセスして頂くためには、上記「1 研究大会」に記載の「特設ページA」入口からパスワードを入力して入って頂く必要があります。「特設ページA」に入って頂くためのパスワードは、会員の皆さまに郵送している学会案内に記載しておりますので、そちらをご確認ください。なお、「特設ページA」には、研究報告資料をダウンロードするためのリンクも掲載されておりますので、研究報告資料は事前に皆さま各自でダウンロードすることにより入手しておいて頂きますようお願い申し上げます。研究報告資料は10月下旬頃を目途に、HP上に掲載する予定です。

・会員の皆さまが第一日午後に開催予定の総会に参加される際には、総会専用の「特設ページB」に入って頂く必要がありますが、その際に必要となるパスワードは、郵送している学会案内に記載の通りです。総会における配付資料も事前に、「特設ページB」から入手しておいて頂きますようお願い申し上げます。配付資料は、総会開催の前日までにはHP上に掲載する予定です。「特設ページB」入口については、上記「2 第72回総会」に記載しています。

 

研究大会・総会プログラム

1日 116日(土)

9:30      Zoomにおける入室開始

9:50      開会の辞

10:00〜11:00  アルメンディンゲンの『ナポレオン法典』継受論―ギーセン会議から法典論争期まで―

三宮 希(福岡大学)
司会 黒田 忠史(甲南大学名誉教授)

11:00〜12:00  近代日本における特許審判をめぐる経済と法

大泉 陽輔(岡山大学)
司会 林 真貴子(近畿大学)

12:00〜13:10  昼休み

13:10〜16:10  〔特  集〕「前近代日本法制史研究の現状と課題―法制史研究からみた歴史研究、歴史研究からみた法制史研究―」

「趣旨説明」

西村 安博(同志社大学)

「歴史学からみた平安時代法制史研究の現在」

佐藤 全敏(東京女子大学)

「法制史学と歴史学の間―日本の中世前期を素材に―」

西田 友広(東京大学)

「中世後期における紛争と法をめぐって」

畠山 亮(龍谷大学)

「近世後期における一揆の変質と科刑」

代田 清嗣(名城大学)

16:20〜17:50  総会

 

2日 117日(日)

9:30      Zoomにおける入室開始

9:45      事務連絡

9:50〜12:50  〔ミニ・シンポジウム〕「比較法学史研究の一素材としての『法学提要(The Institutes)』―特に体系と普及に関して―」

「趣旨説明」

葛西 康徳(東京大学名誉教授, St John’s College/ King’s College, Cambridge)

「ガイウス『法学提要』の三分類体系について―とくに「物の法」を中心に―」

吉原 達也(日本大学)

「提要システムと「相続法」」

吉村 朋代(広島国際大学)

「法学提要の近代的展開―Institutional writersと近代諸法典―」

松本 英実(青山学院大学)

「コモン・ローにおける『法学提要』の意義―その歴史と現状―」

葛西 康徳(上掲)

12:50〜14:00  昼休み

14:00〜15:00  古代地中海世界における小切手または信用状―社会経済史的観点から見たローマ法史料―

佐々木 健(京都大学)
司会 林 智良(大阪大学)

15:10〜16:10  明治初年の吟味願と告訴・告発

髙田 久実(武蔵野学院大学)
司会 岩谷 十郎(慶應義塾大学)

16:25〜17:25  明治国家における占領地法の成立と展開

小野 博司(神戸大学)
司会 出口 雄一(桐蔭横浜大学)

17:25〜17:30  閉会の辞

 

 

報告要旨

 

アルメンディンゲンの『ナポレオン法典』継受論─ギーセン会議から法典論争期まで─

                                  三宮 希(福岡大学)

19世紀初頭ドイツにおける『ナポレオン法典』の継受史上重要なのは、ナッサウ公国・ヘッセン大公国・ライン同盟筆頭君侯国(フランクフルト大公国)が、ヘッセンの都市ギーセンで1809年から1810年にかけて開催したギーセン会議である。会議をリードしたのが、ナッサウ公国からの派遣委員ルートヴィヒ・ハルシャー・フォン・アルメンディンゲンであった。本報告は、1807年から1814年、すなわち、ライン同盟期からウィーン会議期におけるアルメンディンゲンによる『ナポレオン法典』継受論の軌跡を辿る。素材は、その著書、とくに『民事訴訟の形而上学』(1807年)及び『政治的諸見解』(1814年)、ギーセン会議に提出した幾多の意見書及びナッサウ公国政府と交わした書状などである。得られたささやかな知見は、以下のとおりである。

①アルメンディンゲンは、フランスで生まれ、フランス文化及びフランス法の素養を身に付けた。とくに、モンテスキューの『法の精神』を信奉していた。

②アルメンディンゲンは、『ナポレオン法典』各条が、フランスの国制及びインフラとなる周辺法制度(とくに、民事裁判制度・公証人制度・不動産登記制度など)と不可分であることを熟知していた。彼にとって、『ナポレオン法典』は、フランスにおいては、すぐれた法典として評価されるべきものであった。しかし、土台であるインフラ抜きにこれをドイツの地に迅速一括継受することは、不可能であった。

③アルメンディンゲンは、ドイツにおけるインフラを整備しつつ、『ナポレオン法典』各条を、インフラ整備に合わせて、部分的に順次継受することを主張した。この主張は、『ナポレオン法典』の迅速一括継受を推進する勢力の不興を買った。

④ナポレオンが没落すると、ドイツにおける『ナポレオン法典』継受論は、急速に下火になる。代わって、統一的市民法典の編纂(ティボー)やドイツ民族精神論(サヴィニー)が主張されるようになる。アルメンディンゲンは、その中にあってドイツ各国(たとえば、ナッサウ公国)の国制にもとづいた各国ごとの民法典編纂を主張した。

⑤アルメンディンゲンの『ナポレオン法典』継受に対する態度は、一貫していた。

アルメンディンゲンが生きた時代そのものが、ナポレオンによる支配からドイツ民族主義へと変化した。アルメンディゲンは、この時代の変遷に翻弄されたのである。

報告者によるこれまでの研究:三宮 希「ライン同盟諸国における『ナポレオン法典』の継受をめぐる議論」『福岡大学大学院論集』第48巻第1号(2016年)pp.65-89; 同「ライン同盟諸国への『ナポレオン法典』継受に関するギーセン会議の意義」『福岡大学法学論叢』第64巻第1号(2019年)pp.143-227; 同「アルメンディンゲンの『ナポレオン法典』論」『福岡大学法学論叢』第66巻第2号(2021年公刊予定。現在印刷中)pp.57.

※会員の皆さまに郵送した学会開催案内の中で、上記報告要旨タイトルの誤記載がありました。訂正してお詫びします。

 

近代日本における特許審判をめぐる経済と法

                       大泉 陽輔(岡山大学)

「知財立国」が国家政策に掲げられて久しい今日の経済社会において、特許法制に対する関心はますます高い。しかしながら該分野は法制史学において未開拓のまま置かれている。

もっとも、特許法史研究が無益であるわけでは無論なく、むしろ法制史学一般に連なる固有の意義が存在する。と言うのも、特許法制は前近代日本には存在しない近代に新たな法分野であるとともに、他方でその運用には高度の専門性が伴う(実際、明治4年に布告された専売略規則は執行体制の不備が原因で早くも翌年廃止となった)。つまり、単に特許法理に沿う形で立法すればよいわけではなく、同時に制度運用に堪える技術的専門知を獲得する必要があった。鋭く衝突する両者は制度受容にあたっての難題として前面化することとなる。ここに日本近代特許法制は「法の継受」研究として好個の素材を提供する。

そこで本報告では特許法執行体制、とくに審判制度に分析軸を定め、その形成・展開過程の考察を通じて日本近代特許法制の意義・性格を描出することを目的とする。具体的な検討対象は、専門性を誇る人的資源を備えた特許局と法律論上の正統性を有する司法裁判所をめぐる制度設計における綱引き、ひと言で表現すれば、特許法執行体制における行政・司法関係であり実務と理論の折衝である。

法制史研究を自認するにせよ、特許法制が産業の発達に寄与することを使命とする以上、その史的分析もまた産業社会の動向を無視し得ない。そこで本報告では第一に、近代日本における特許利用実態の考察を通じて近代日本に要請された特許法執行体制像を析出する。すなわち、特許統計のほか新聞雑誌記事や社史を手掛かりに、現実の特許権者の構成および特許取得・管理といった特許活動の態様を追う。これにより、執行体制に対して高度の技術的専門性が要請されたことを実証的に確認する。

次いで第二に、そのような高度の技術的専門性を備えた執行体制が実現される過程を究明する。ここでは日本近代特許法制に定められた審判制度を紹介しつつ、その立法過程に現れた議論を分析する。さらに、執行体制の実態を明らかにすべく、特許局の技術的判断能力の評定をおこなう。具体的には、特許局審判官の経歴の悉皆調査をもとに、審判官全体に占める技術者の動向を検討する。

技術的専門性と法的正統性が対置される本報告において、執行体制をめぐる法律論の動向もまた不可欠の検討課題である。そこで第三に、特許審判の法的性質に関する当時の学説を、その変遷に留意しつつ検討する。

以上の考察をもって、技術的判断能力を備えた執行体制の整備を死活問題とした日本近代特許法制における立法者の窮策あるいは叡知を明らかにしたい。

 

〔特  集〕

前近代日本法制史研究の現状と課題

─法制史研究からみた歴史研究、歴史研究からみた法制史研究─

西村 安博(同志社大学)

とりわけ前近代の日本法制史に関しては、法制史研究者による狭義の法制史研究はもとより、歴史学研究者による法制度史研究を中心とする実証研究においても豊かな研究成果が蓄積されてきている。並立して存在するそれぞれにおける研究成果は一つの法的事象を多面的に理解するために有意義なものであるといえるが、法制史研究者と歴史学研究者の間にはその理解が導かれる前提としての問題意識や方法論の相違が厳然として存在していることもまた事実である。したがって、両者が導き出す法制史的理解と歴史的理解の間に、時として微妙な食い違いや決定的な対立が生じる場合もみられるのである。

したがって、法制史研究者および歴史学研究者には、それぞれの立場から導き出される多元的な理解を安易に統合しようとするのではなく、相違そのものを直視しながら、そのような相違が生じることになった理由を自覚的に捉え直していくことが求められることになるのである。多元的な理解を安易に統合することは各々の学問に固有の問題意識を捨象することになり、結果的には無自覚な事象把握という事態に陥ってしまうからである。

かような意味において両者が方法論的な峻別を自覚しながら対話を試みていく中にあって、法制史研究者に対しては、法制史研究が法学の一分野として如何なる立ち位置から事象を把握することが期待されてきたのかを認識させるとともに、今後いかなる方向を選択すべきなのかという課題をあらためて自覚させることにもなろう。他方で、歴史研究者に対しては、これまで自己の問題意識にいかなる程度自覚的であったのか、あるいはややもすればその時々の研究動向に振り回されることになっている研究姿勢に警鐘を鳴らすことにもなるであろう。

この「特集」においては、前近代の日本法制史に関心を有する法制史研究者および歴史研究者からなる4名の報告者が、以上のような問題関心をゆるやかに共有する中で、統一テーマを前面に打ち出すシンポジウム形式を敢えて採用せず、それぞれが関心を向ける時代の具体的な法的事象に関する「個別報告」という場を設けることにより、その方法論的差異を浮かび上がらせ、それを相互に直視し、今後の前近代法制史研究において取り組んでいくべき課題の一端を提供すべく企画するものである。

 

歴史学からみた平安時代法制史研究の現在

佐藤 全敏(東京女子大学)

本報告は、平安時代の法制史に関する研究情況について、歴史学の立場から簡単なコメントを行うものである。

青林書院『日本法制史』の古代のパートは、構成上、1993年版と2010年版との間で大きな相違がある。2010年版にいたって、平安時代についての独立した章が立てられるようになったのである。

奈良時代が100年足らずで幕を閉じたのに対し、平安時代は400年以上にもおよび、その間に起こった国家・社会の変化はきわめて大きなものがあった。いわば古代から中世へと音をたてて移行していく期間にあたる。法や社会秩序の面でも、きわめて興味深い変化があったことだろう。しかし、律令に代わる根本法典が作られなかったこともあり、この間の法制史を体系的に捉えることは必ずしも容易ではない。

一方、歴史学における平安時代史研究は、1990年代に入るころから急激に進展し、それ以前の研究水準を一新してしまった。大量の古記録や儀式書を分析し、そのなかの断片的記述を集積して歴史的事象を明らかにしていく研究方法が一般化したのである。こうして奈良時代研究とは異なる専門的トレーニングが必須となり、またそうした方法による新しい水準の論文が発表されるようになった。青林書院『日本法制史』2010版をひもとくと、この間に進んだ歴史学の研究成果が大きく取り入れられており、執筆された法制史家の学問的誠実さと熱意とが強く伝わってくる。

ただ惜しまれるのは、古代から中世にかけての「法圏」と「裁判制度」の変化にほとんど触れられておられないようにみえることである。また変化した「政務構造」について、結局のところ、その変化の本質は何であり、「法圏」や「裁判制度」の変化とどのように連動しているのか、といった全体像が必ずしも提示されていないようにもみえる。

本報告では、『日本法制史』2010版に正面から向き合い、さらに前に進んでいくために、そこに付け加えるべき視点・諸研究を紹介したい。

 

法制史学と歴史学の間─日本の中世前期を素材に─

西田 友広(東京大学)

前近代の日本の法に関する研究は、法制史学・歴史学の双方で行われてきたが、両者の間には共通点がある一方、問題意識や方法論などをめぐる相違点も存在するように見える。

近年、同時期に刊行された二冊の日本法制史の入門書によれば、法制史学とは、基礎法学の一分野で、過去の法のあり方を明らかにしようとする学問であり、法制史学者は法に関わる史料の専門家、とされている。これと対比するなら、歴史学とは、人文学の一分野で、過去の人々のあり方を明らかにしようとする学問であり、歴史学者はさまざまな史料(≠あらゆる史料)の専門家、となろう。法制史学は法のあり方そのものを課題とするのに対し、歴史学は人々のあり方を課題とし、法はそれを考える素材の一つである。

法制史学も歴史学も同じく過去の法を扱うが、日本の中世には「近代的な意味での法」が存在せず、様々な主体により様々な法が行われていたという難しさがある。『中世法制史料集』(岩波書店)は、「中世の法制史料中もっとも基本的なるもの」として、幕府・武家・朝廷・公家・寺社の定めた制定法(とその参考資料)を集成する一方、「最も広義に解するならば、あらゆる史料がなんらかの意味で法制史料」であると指摘している。また、特に一九七〇年代以降には、「成文化されていたわけではなくとも、当時の多くの人に共有された規範や行動様式」を明らかにしようとする法慣習研究も行われている。何を法として扱うかは個々の研究者の問題設定によろうが、同じく過去の法を扱う法制史学と歴史学とが互いの在り方を理解しあうことは重要なことであろう。

そこで本報告では、いくつかの書評などをとりあげ、互いに相手がどのように見えているのか、両者の間にはどのような相違点や共通点があるのかを考え、法制史学・歴史学の相互理解の一助となることを目指したい。

 

中世後期における紛争と法をめぐって

畠山 亮(龍谷大学)

中世後期について本特集の趣意に沿って考えるに当って、時代を象徴する事象という観点から、紛争とその解決という場面に焦点を合わせることを選択した。例えば、研究史上の分厚い積み上げにより明らかにされてきた村落間相論を中心とした様々な紛争の実態や「近所の儀」「中分の法」といった独特な解決法などは、それ自体が法制史研究の対象として中心的に取り上げられるべきものである。加えてここには、雑駁に言って「紛争を誰が、どう解決するのか」「その解決法をどのように評価するのか」という二つのレヴェルで課題が孕まれている。それはすなわち、紛争とその解決における村落などの自律性や幕府・戦国大名などの権力の在り方といったファクターに直結し、そこから例えば自力救済・暴力・喧嘩両成敗などをキータームとしつつ有益な分析視角が提供されることになると考える。

こうした研究史において、村落の実態を活写した藤木久志氏の「自力の村」論と称される一連の業績が重要な位置を占めていることは言うまでもない。周知の通り長年にわたって日本中近世移行期研究をリードした藤木氏の業績は、総じて法制史研究においても重視されるべき内容や視角を包含するものであるが、ここでは中でも「豊臣平和令」をめぐる学説に注目したい。曰く、「ヨーロッパ中世史における家の平和・特別平和などのフリーデの概念、とくに一二世紀中期ドイツのラントフリーデ(帝国平和令)やその武器規制条項などに示唆を得た」(同著『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会、1985年)「序」)とあるように、特に西洋史の概念・枠組を自覚的に持ち込んだ点である。ここからは、日本法制史研究における西洋史の介在の意義という視角について改めて重大な示唆が与えられていると言えよう。

本報告は、以上の諸点を意識しまた着想を得ながら、主に紛争とその解決の場面を対象として取り上げ、中世後期における法について広義・狭義の法制史研究を対照させつつ若干の考察を試みるものである。

 

近世後期における一揆の変質と科刑

代田 清嗣(名城大学)

近世における一揆(強訴・徒党)の形態に関して、歴史学では1980年代以降、一揆の作法とも呼ぶべき行動様式と、その変遷について研究がなされてきた。保坂智氏によれば、村を介した動員や、得物や出立により百姓らしさを強調するといった百姓一揆の作法は、元文期に成立し、天明から文化期に変質し始め、天保期に解体する。この作法が変質・解体した後の一揆においては、必ずしも訴願を目的とせず、武器を携行・使用し、狼藉や放火などに及ぶという新たな行動様式が現れるようになったとされる。須田努氏は、このような行動に及ぶ者たちが「悪党」として把握されており、彼らに対しては公権力も、従来は抑制していた武器の使用を容認し、また周辺の村などへの協力を要請しながら、その鎮圧に乗り出すようになると指摘している。

ところで周知のとおり、強訴・徒党は犯罪類型のひとつであるが、法制史研究の中で、上に述べたような一揆の形態・性質の変化を加味した研究は十分になされていない。また歴史学の面からも、当面の鎮圧方法(特に鎮圧に際しての鉄砲使用の可否)に関しては比較的豊富な研究が見られるものの、裁判という場において「悪党」らがどのように処罰されたかについて詳述するものはほとんど見られない。しかし、保坂氏の指摘するように、一揆・徒党に対する禁令が、一揆作法の成立と並行して制定されたのであるとすれば、その作法の崩壊が処罰の在り方に及ぼした影響についても、検討がなされるべきであろう。

そこで本報告では、「悪党」の処罰事例を、「悪党」の台頭する以前の事例と比較し、特に「悪党」に対する科刑と、その科刑が如何なる理由によって導かれているかという点を明らかにする。また、従来この論点が検討されてこなかった理由についても、歴史学と法制史学との関心の差という面から考察を加える。

 

〔ミニ・シンポジウム〕

比較法学史研究の一素材としての『法学提要(The Institutes)』─特に体系と普及に関して─

 葛西 康徳(東京大学名誉教授)

我国において、古代ローマ法における『法学提要(Institutiones)』(ガイウス(紀元後2世紀中葉)およびユスティニアヌス(紀元後533年))の研究は明治期から為されてきたが、最近は研究の中心は専ら『学説彙纂(ディゲスタ、Digesta)』に移っている。また、その世界的普及(diffusion)についての研究は、海外においても必ずしも多くない。我国においては、もっぱら民法典編纂に関して、法学提要方式の旧民法典ないしボワソナード民法典からパンデクテン方式の現行民法典への移行という文脈で議論されてきた。

しかしながら、『法学提要』をめぐる問題は「終わった」問題ではない。例えば、①ガイウス『法学提要』の革新性の謎は、まだ十分解き明かされていない。②ローマ法継受史の中で、『法学提要』に絞った研究は(特にわが国では)ほとんどなされていない。③コモン・ローにおいて、『法学提要』が法学研究および教育において占める位置は、我々の想像以上に高い。④日本民法典編纂史研究において、新たに発見された資料を『法学提要』の視点からどうのように位置づけるか。⑤最後に、日本法制史研究において、石井紫郎著『日本人の法生活』(東京大学出版会2012年)がこの法学提要方式を採用していることは極めて興味深い。

このように、法学提要問題は非常に多岐にわたるが、本シンポジウムでは、吉原報告がガイウス『法学提要』の革新性を、特に「モノ(res)の法」における有体物(res corporales)と無体物(res incorporales)の区別に関して分析する。これをうけて吉村報告は、とくに無体物における「相続財産」の位置づけの問題を、普及史の観点も交えて論ずる。松本報告は、『法学提要』普及史を、特にスコットランドに焦点を当てて紹介し、さらに「モンテネグロ一般財産法典(1888年)」の起草者ヴァルタザール・ボギシッチ(Valtazar Bogišić 1834-1908)を取り上げて、日本民法典編纂過程における「人の法」と財産法の問題、さらにボワソナードとの関係について、発見された資料をもとに論じる。最後に、葛西報告は、コモン・ローにおいて『法学提要』が果たした役割をいくつかの著作の紹介を通じて歴史的に概観した上で、研究と教育の現状について、とくにオックスフォード大学およびケンブリッジ大学の法学シラバスを紹介しながら検討する。

本シンポジウムの報告者は、「法学ジャンルとしての『法学提要』を軸とした比較法学史研究」を現在遂行中であるが、今回はこの共同研究の現状の一端を紹介するものである。法制史学会員より、多方面にわたるご批判、ご教示いただければ幸いである。(科学研究費研究「『法学提要』(Institutes)に対する比較法学史的総合研究」(基盤研究(B)2017~新型コロナの影響により延長継続中)

 

ガイウス『法学提要』の三分類体系について─とくに「物の法」を中心に─

吉原 達也(日本大学)

ローマの法学者のなかで、2世紀のガイウス(Gaius)の法学入門書、いわゆる『法学提要』(Institutiones)4巻は、いわゆる「人」(persona)「物」(res)「訴訟」(actio)という三分類の編成によって後世に大きな影響を残した点で他の法学文献とは異なった位置を占める。同書は、フリッツ・シュルツ『ローマ法学史』(Fritz Schulz, History of Roman Science, 1946)において、その論題編成においてQ・ムキウス(Mucius)『市民法』(Ius Civile)の影響が見られると指摘されている。シュルツはこの点で、ガイウス『法学提要』がムキウス『市民法』から出発していることが「必ずしも幸運なことではない」と指摘する。シュルツによれば、ムキウスの編成(相続法―人の法-物の法―債務関係法)と異なって、ガイウスでは、相続法は、財産法のあと、債務関係法の前に移され、これら3つの主題が「物に関する法」(ius quod ad res pertinet)として結びつけられて、「決定的に異質なものからなる集合体」を形成することになった、というのである。本報告ではまずガイウス『法学提要』の「物の法」がどのような意図をもって構成されているのかについて、とくに、物の下位分類としての「有体物」(res corporales)および「無体物」(res incorporales)の分類に関心をもつ。「有体物」は人が触知し得るものであり、土地・奴隷・衣服・金製品などが、古くからローマ法の領域に含まれていた。他方で、ガイウスはこれとは区別される「無体物」を見出し、そのリストとして、相続財産(抽象的に権利および債務の総体)・用益権・債権・役権を掲げている。ガイウス『法学提要』で提示された「有体物」と「無体物」の峻別は、その後の法の体系化への発想に大きな影響を投げかけた。こうした峻別の考え方は、啓蒙期自然法的諸法典の体系の中にも継承されているが、サヴィニー以後ドイツ民法典へと連なる系譜の中で「有体物」と「無体物」の峻別は排されることになる。本報告では、ガイウス以来の物の峻別理論がインスティトゥティオネス体系からパンデクテン体系への転換の中でどのように変遷してきたかを視野に入れつつ、『法学提要』における物の分類がもつ歴史的意義を再検討してみたい。

 

提要システムと「相続法」

吉村 朋代(広島国際大学)

パンデクテン・システムを採用した日本民法典は、「相続法」を独立させて、5編構成の最後に置く。そして、直前の「親族法」と共に、講学上、「家族法」の名の下に統一的に捉えられている。これに対して、提要システムを採る、例えばフランス民法典は、第1編「人」、第2編「財産および所有権の諸変容」、第3編「所有権取得の諸態様」の三部構成をとり、この第3編の冒頭、第1章に「相続」を置く。そして、フランスでは、講学上、この「相続」を、同編の第2章「恵与(贈与・遺贈)」、第5章「夫婦財産制」と共に、一般に、「家族財産法droit patrimonial de la famille」として統合的に扱っている。提要システムにおいて、相続は、売買などの契約とともに財産取得方法の一つとして付置され、ここにパンデクテン・システムとの外形上の違いが際立っている。

もっとも、外観上の大きな違いにもかかわらず、パンデクテン・システムは、提要システムの発展過程の中から、19世紀ドイツで生み出された提要システムの落とし子である。パンデクテン体系に特徴的な総則編は、権利の主体・客体・変動(とりわけ代表的権利変動原因としての法律行為、時効など)からなり、それ自体がミニ・インスティトゥティオネスとも言うべき構造をもつ。物権、債権、親族は、この総則にそれぞれ紐付けることができるが、残った相続をどう紐付けるのかは、パンデクテン・システムを確立したサヴィニーも苦慮したところである。

F.シュルツによれば、「相続法」という体系的統一体の最初の試みは、2世紀のガイウス『法学提要』(G.2,97-3,87)に見出されるという(Classical Roman Law, 1951, p.203)。ガイウスは、相続や遺贈を「物の法」のうちの「物の包括取得」にまとめるが、相続財産を、用益権や各種の債権とともに、無体物res incorporalesと定義している(G.2,14)。6世紀のユスティニアヌス帝の『法学提要』(I.2,6-3,12)は、このガイウスの体系に従う。「相続法」の次の展開は、17-18世紀の自然法学を待たねばならない。そこで、人の法/モノの法は、多彩に組み替えられ、相続法は、「人の法」である親族法と密接につながっていくが、「相続法」の体系的位置づけは、一定することはなかった。

本報告では、「相続法」を、体系的位置づけの観点から、ガイウスおよびユスティニアヌス帝の『提要』に遡って検討し、「人の法」と「モノの法」の間にある相続法の性格について改めて考えてみたい。

 

法学提要の近代的展開─Institutional writersと近代諸法典─

                                松本 英実(青山学院大学)

本報告では、法学提要が近代の各国に承継され変化するさまを、二つの観点から考察したい。

第一に、スコットランドを例として法学提要の普及を検証したい。スコットランドは、第70回総会シンポジウムでも取り上げたように、ローマ法=大陸法国である。スコットランド法概説書も基本的に提要方式で書かれてきた伝統がある。これらを著したInstitutional writerと呼ばれる人たちを検討したい。特に、彼らが法学提要の体系をどのように組み替えたか、(吉村報告を受けて)相続法がどのような位置づけを与えられているかに注目する。

第二に、法学提要方式を採用した日本の旧民法を念頭におきつつ、これと比較すべき対象として、同時代の「モンテネグロ一般財産法典」(1888年)を取り上げる。同法典の単独起草者ヴァルタザール・ボギシッチValtazar Bogišić (1834-1908)は、「人の法」を除外して民法を法典化するという大変オリジナルな構想を実行した。彼が具体的にどのように財産法と家族法の間を画したかが注目される。明治民法起草の際に同法典が参照されたことは周知の事実であるが、報告者が行ったクロアチアのボギシッチ・コレクションの調査からは、ボギシッチと①松方正義やアレクサンダー・フォン・シーボルトとの面会と書簡の内容が明らかになり、また②ボワソナードとも書簡を交換していたことが判明した。ボギシッチの日本に対する大きな関心は、日本民法の構成の仕方に向けられていた。日本とモンテネグロとは、「西洋法」との関係において同様の情況にある、とボギシッチは理解しており、日本における民法の法典化においても、モンテネグロ法と同じように、財産法と家族・相続法とは切り離すべきだと考えていた(1878年に、そのように松方らに助言した)。日本民法典(の編成)が海外からどのような関心を持って見られていたか、具体的な例を通して考察したい。

 

コモン・ローにおける『法学提要』の意義―その歴史と現状—

         葛西 康徳(東京大学名誉教授, St John’s College / King’s College, Cambridge)

本報告は、コモン・ロー諸国とりわけイングランドにおいて、『法学提要』及びその体系が有する意義を、いくつかの著作を紹介することを通じて歴史的に跡付けるとともに、現在の研究・教育状況の一端を紹介することを目的とする。故ピーター・バークス(Peter Birks 1941-2004)によれば、イングランドにおいて『法学提要』が果たした最大の意義は、イングランド法の全体像を理解するための枠組の提供である(Peter Birks and Grant McLeod, Justinian’s Institutes, London 1987, pp.23-26)。このような目的を果たしたBractonのLaws and Customs of Englandから、BlackstoneのCommentaries on the Laws of Englandにいたる一連の著作の中で、ここではSir Henry Finch (died 1625), Nomotechnia -Law or a Discourse thereof in four Books (1613), と Thomas Wood (1661-1722), Institutes of the Laws of England, を取り上げ、これらの著作の中でコモン・ローがどの程度法学提要の枠組に沿うように整理されているかを検討する。

次に、現状を概観する。上記の伝統に基づく諸研究の現在における到達点を示す著作として、Peter Birks (ed. ), English Private Law, Oxford 2000 (Andrew Burrows (ed.), 2nd.ed., 2007, 3rd. ed., 2013) を取り上げる。この著作はいわば法学提要のコモン・ロー現代版である。他方、法学教育においてイングランド(私)法の全体像把握の機能を果たしているのが、オックスフォード大学およびケンブリッジ大学におけるローマ法教育である(‘A Roman Introduction to Private Law’ (Oxford), ‘Civil Law’ (Cambridge))。本報告では両大学のシラバスの一端を紹介する。

最後に、以上のような考察を踏まえて、『法学提要』がコモン・ロー圏とローマ法圏の知的コミュニケーションの語彙と土俵を提供していることを示唆できればと考えている。

 

古代地中海世界における小切手または信用状─社会経済史的観点から見たローマ法史料─

佐々木 健(京都大学)

本報告では、従来、ローマ代理法、支配人訴権といった文脈で研究されてきた法律史料、法学者スカエウォラの残したD.14.3.20を、商事法ないし社会経済史的観点から再検討する。この史料には、書簡を通じた決済が見出され、銀行とその支配人とが登場し、そのためこれを任命した経営者の責任が問題とされてきたのである。

しかし、先行研究は、書簡に登場する複数の固有名詞を整合的に理解すべく、敢えて同一人物の別名であると解する無理を犯す。そうして、史料に登場する履行期が4月末である点、及び銀行送金を債権者が了とした背景事情は、不問に付される。これに対し、本報告では、銀行側支店長が管理する預金者(顧客)の口座から債権者が支払いを受けることで、隔地者間でも決済が容易であったと想定する。同時に、履行期までの時間的懸隔を利用して、債務者が取引の目的物を検品し輸送し、例えばエジプト産小麦をローマで小売するなど、期日までに入金する準備を整えつつ、不良品や輸送事故にも備えたと解する。

法文史料が伝わるからには、不幸にも取引が不首尾に終わり、紛争が生じたと推察される。上記史料では、銀行経営者の死亡と遺産競売が発生し、債権回収が危ぶまれた。そこで書簡の受取人は、記名者である支配人(支店長)に、保証の実行(立替払い)を求めたと解される。しかし法学者スカエウォラの見解による限り、この「保証」は支払人たる銀行の信用に基づくのであって、支配人個人の責任に帰すべきでないとし、法と衡平とに照らしても結論を正当化している。

本報告は、先行研究とは異なる想定、即ち、史料的根拠のない「先行取引」を前提とする。この点に、国際取引における信用状との類似を見出す。紙幣なき世界で、盗難の心配がない記名証券として、輸入者にとっては前払いを要せず、輸出者にとっては不払いの危険を銀行に付け替えるという利点があろう。しかし実際には、輸入業者よりも先に、銀行が破綻した。未収金を支店長による個人保証から回収したい意図には共感を覚える。だからと言って、債務者からの弁済を認めれば、破産財団と化した銀行を巡る債権者平等に反する。為替の存在が主張される古代地中海世界にあって、抽象的に取立てを想定するよりも、社会経済史の知見を取り込み実務を再構成する方が、新たな法史料解釈として評価されるべきであろう。

これは、歴史研究と法制史研究を架橋する試みでもある。本総会特集に西洋から接近する趣旨でもある。同時に、法制史学会第68回総会における論題「経済史学と法制史学」に対する古代地中海世界からの応答ともなろう。

なお、昨年春に開催校に論題を提出した後、昨年度末に同内容の論文を先に公表した(佐々木健「古代地中海世界における小切手または信用状――社会経済史研究から見たローマ法史料」『法学論叢』188-4・5・6, 246-263)。本報告では質疑応答を充実させたい。

 

明治初年の吟味願と告訴・告発

髙田 久実(武蔵野学院大学)

明治初期の刑事手続では、犯罪の処罰を求める意思表示として、吟味願と告訴・告発という方法が存在した。これらにより、人々は当局に対して犯罪の処罰を要請することが可能であったが、取り扱う機関について、それぞれに変遷が見られる。

吟味願は、当初、検事局で取り扱われていたが、明治7年10月4日司法省達に基づき、「吟味願又ハ罪犯受取方等総テ断獄課ニテ取扱」うとして断獄課の管掌とされたのち、明治8年12月27日司法省第47号達で「自今吟味願之儀ハ警察官ニ於テ取扱」うと定められ、一律に警察官が吟味願を扱うこととなった。しかし、明治14年1月15日司法省甲第1号布達により、吟味願が廃止になるとともに、「被害者ヨリ犯罪ヲ訴フルモノハ糺問判事検事又ハ警察官ニ告訴」することとされ、明治15年施行の治罪法に至った。一方、その「告訴」に関しては、明治9年4月24日司法省第48号達の司法警察仮規則によって、検事が違警罪を除くすべての「告訴告発」を受けることが定められていた。

そもそも、吟味願は、「曲直を糺すことを請う情願の一種」であり、「罪犯の未だ明瞭でない」ことを、「刑事事件として吟味を願出る類のもの」であることから、「民刑混淆の変態的な」性格をもつと説明されており、実際に、明治12年7月29日司法省丙第9号達は、被害者からの吟味願を「刑事附帯ノ私訴」とみなすように指示している。一方、告訴・告発に関しては、前述した司法警察仮規則において、告訴には「被害人自ラ訴フル者」、告発には「他人ヨリ訴フルモノ」と注記が付されている。明治11年以降に発せられた告訴・告発に関する単行の法令の中には、追って施行される治罪法に定められた告訴・告発と矛盾しない規定が見られると指摘されているものの、いまだ吟味願と告訴・告発の関係性は不明瞭であり、犯罪の処罰を求める方法が整理された状況であるとは言い難い。

そこで、本報告では、管掌する機関および実体法との関連性に着目し、吟味願と告訴・告発に対する考察を試みる。まず、管掌する機関については、その移り変わりに着目する。吟味願の管轄が順に検事局、断獄課、警察と移行した一方で、告訴・告発は検事が担当することとされていたが、明治14年には、告訴を受理する権限が糾問判事、検事、警察官に認められた。後に施行される治罪法の規定を先取りするかたちで、関連する単行の法令が発せられていたという上述の指摘も考慮し、同時代に編纂されていた訴訟法典の立法資料等も分析しつつ、吟味願と告訴・告発を管掌する主体の相違について、刑事手続をめぐる諸機関の分掌を踏まえて検討する。

また、実体法との関連性については、それぞれの手続で取り扱われた犯罪ないし紛争を分析する。吟味願が「刑事附帯ノ私訴」と読み替えられたうえで、廃止に至ったことに対し、告訴・告発については一貫して刑事裁判のみに関わる手続として位置づけられていた。そこで、実際の手続で対象とされた事件を分析し、実体法との関連性から、吟味願と告訴・告発の比較を行う。

そして、以上の検討を前提として、吟味願と告訴・告発の関係性を考察することにより、民事手続との整理が図られるなかで、刑事手続において刑事処罰を求める仕組みが形成されていく過程を明らかにしたい。

 

明治国家における占領地法の成立と展開

小野 博司(神戸大学)

軍に関する法は、日本近代法制史における最後の重要な未開拓領域である。統帥権の独立に言及しない教科書はなく、近年も優れた研究書(荒邦啓介『明治憲法における「国務」と「統帥」―統帥権の憲法史的研究―』成文堂、2017年)が刊行されているので、このように述べると意外に思われるかもしれない。

周知のとおり、軍の「暴走」により明治国家の命運は尽きた。にもかかわらず日本近代法制史においては、統帥権の独立と軍法会議(近年の成果としては、NHKスペシャル取材班=北博昭『戦場の軍法会議―日本兵はなぜ処刑されたのか―』NHK出版、2013年、相原優矢「軍法務官研究―日本陸海軍における「法務スタッフ」(いわゆる「法務官の概要」)―」京都大学大学院法学研究科修士論文、2016年、霞信彦『軍法会議のない「軍隊」―自衛隊に軍法会議は不要か―』慶應義塾大学出版会、2017年、などが挙げられる)を除いては、軍に関する法を扱った研究はあまり見られないのではないだろうか。

「明治国家において、軍はどのようにその存在感を高めたのか」。様々な分野において繰り返し論じられてきた問いであるが、日本近代法制史はこれにどう答えることができるだろうか。軍がその存在感を高めた一因は、外地をはじめとする「新領土」の統治を担当したことにある。明治国家は19世紀後半以降、東アジアにおいて帝国となったが、新領土獲得の目的(口実)が安全保障であったため、その統治は軍が担当することになった。新領土の統治を担当したことは、軍にさらなる領土獲得の動機を与え、実際そのための行動が次々と起こされていったのである。

軍による対外進出(侵略)の連鎖は、いかなる方法で行われたのだろうか。またその際に法はどのような役割を果たしたのだろうか。この問いに答えるのが本報告の課題であり、そのために取り上げるのが占領地法(軍政法)である。占領地法とは、軍司令官の作戦行動権を根拠に、占領軍が現地において制定する法である。占領地法の代表は、軍の安全を確保し、また作成行動を遂行できるよう、これらを阻害する行為を処罰する軍律である(北博昭『軍律法廷―戦時下の知られざる「裁判」―』朝日新聞社、1997年が代表的研究である)。しかし、(陸軍、海軍を問わず)軍が占領地において制定したのは、報告者がこれまで明らかにした南洋群島(1914年-1922年)や香港(1941年-1945年)の例からも明らかなように、軍律だけではなかった。本報告では、日清戦争から第一次世界大戦までの時期を中心に占領地法の展開を追い、時代が下るにつれて見られるようになった変化を指摘する。

【参考文献】
拙稿「香港軍政法序説―1942年制定香督令の紹介を中心に―」『神戸法学雑誌』67巻1号(2017年)
拙稿「海軍占領期南洋群島の法概論」『神戸法学雑誌』68巻3号(2018年)

 

過去の総会および研究大会の記録

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