法制史学会第64回総会のご案内


 法制史学会第64回総会を下記の要領で開催いたします。金沢で開催されるのは1986年10月の研究大会以来、四半世紀ぶりのこととなります。多くの会員のご参加をお待ちしています。
 総会等への参加につきましては、開催案内に同封の振込用紙に必要事項をご記入のうえ、5月31日(木)までに振込手続をお済ませ下さい。お振込の確認には若干の日数を要しますので、総会準備の都合上、期限を厳守下さいますようお願い申し上げます。お振込の確認には若干の日数を要しますので、総会準備の都合上、期限を厳守くださいますようお願い申し上げます。
 なお、研究報告に限り、非会員の方々も当日会場にて参加費をお支払いいただきますと、自由に傍聴していただくことができます。ご関心をお持ちの方々のご来場をお待ち申し上げております。

(1)研究報告
  第1日:2012年6月16日(土) 午前10時開始
  第2日:2012年6月17日(日) 午前10時開始
  会 場:金沢スカイホテル18階大宴会場「トップ・オブ・カナザワ」(案内図をご覧ください)
  参加費:1,500円

(2)懇親会
  日 時:2012年6月16日(土) 午後5時半開始予定
  会 場:金沢スカイホテル10階宴会場「白山」(案内図をご覧ください)
  参加費:6,000円

(3)見学会
  日 時:2012年6月18日(月)午前8時45分、金沢スカイホテル裏集合
  目的地:加賀一向一揆最後の山城、および白山麓の焼畑出作り小屋等
     行程の詳細については、こちらを参照。午後5時40分に金沢駅解散予定
  参加費:7,000円(昼食代、入場料を含む)

(4)昼食
 金沢スカイホテルの真向かいは新装なった近江町市場で中には多くの飲食店があり、また金沢スカイホテルの地下街や周辺等にも様々な飲食店があります。昼食には全く困らない環境ですが、土日は観光客が多数押し寄せ混雑も予想されますので、手早く昼食を済ませたい方は弁当(1,000円)をご注文することをお勧めします。事前にご予約いただいた分のみのご用意となりますので、ご利用の方は同封の振込用紙にてお申込み下さい。

(5)宿泊
 会場となる金沢スカイホテルおよび駅前の金沢ガーデンホテルには、法制史学会会員のために優先的に部屋を相当数確保してあります。以下の連絡先にご自身でご予約下さるようお願い申し上げます。なお、その他の宿泊施設等も含めまして、宿泊の斡旋等は㈱日本旅行で行っていますので、もし必要とする方があればそちらにご連絡をお取り下さい。
●宿泊先ご予約に関するお問い合わせ先(ご予約の際には学会名を伝えるとスムーズです)
  金沢スカイホテル宿泊予約センター 電話 (076)233-2233
  ガーデンホテル金沢        電話 (076)263-3333
●宿泊先ご予約および旅行チケット手配に関するお問い合わせ先
  ㈱日本旅行金沢支店        電話 (076)253-5252
  担当:森川和重

(6)連絡先 ※なるべくE-mailをご利用下さい。

  〒920- 1192 金沢市角間町無番地 金沢大学法学類
   法制史学会第64回総会準備委員会(梅田康夫・櫻井利夫・中村正人)
   電 話:076(264)5390(梅田研究室 大会当日はつながりません)
   当日緊急連絡先:090-8265-7918(櫻井携帯) 090(1631)3737(中村携帯)
   FAX:076(264)5405(法学類研究室事務室 大会当日はつながりません)
   e-mail: umetake@staff.kanazawa-u.ac.jp(梅田・E-mailアドレス)




総会プログラム


 第1日 6月16日(土)

10:00―11:00「加賀藩救恤考」丸本 由美子(京都大学)
11:00―12:00「井上毅と参事院―「制法」と「明法」の分離と統合の観点から―」天野 嘉子(法政大学)
 12:00―13:00昼  食
13:00―14:00「フランス革命期における恩赦の廃止と大赦の実施」福田 真希(名古屋大学)
14:00―15:00「ヴェストファーレン条約の「近世」性(仮題)」伊藤 宏二(静岡大学)
 15:00―15:30休  憩
15:30―16:30「清代における秋審判断の構造について」赤城 美恵子(帝京大学)
16:30―17:30【特別講演】「「天聖令」残本をめぐる研究動向」池田 温(東京大学名誉教授)
 17:30―懇親会


 第2日 6月17日(日)

10:00―11:00「プロソポグラフィ的検討によるマクデブルク参審人団研究試論」佐藤 団(京都大学)
11:00―12:00「古代日本律令制の特質―天聖令の発見・公刊によってみえてきたこと―」大津 透(東京大学)
 12:00―13:00昼  食
13:00―15:00総  会  (総会後、休憩)
15:00―16:00「18世紀コモン・ロー法学史探訪―法律書販売カタログを通して見えてくるもの―」深尾 裕造(関西学院大学)
16:00―17:00「近世江戸の都市法とその運用・施行に関する一試論―『類集撰要』(旧幕府引継書)巻七・巻八を素材として―」坂本 忠久(東北大学)
17:00閉  会




報告・講演要旨


加賀藩救恤考

丸本 由美子(京都大学)


 現代的な「権利に基づく社会保障制度」の本格的な整備が始まった時期は第二次大戦後である、というのが、社会保障法史上の通説である。では、それ以前に「権利」を根底としない社会保障制度があったのだろうか?日本においては、明治7(1874)年に制定された恤救規則がそれである。社会保障法や福祉の研究者の間では、封建性・非近代性を批判されつつも、日本初の全国統一的な救貧行政であった点に一定の意義を見出されているものである。
 本報告で取り上げるのは、「封建的・非近代的で地域を限定して実施された社会保障」である。すなわち、江戸幕府・藩が領内の民衆を対象にして実施した救恤制度を題材とする。中でも、加賀藩を焦点とする。御三家に次ぐ格式を許された外様の大藩であり、「一加賀、二土佐」とその政治を称えられた加賀藩は、豊かで安定した基盤を有するに比例して、前近代社会の明暗のコントラストもまた強いからである。
 貧民に対する救恤制度は、加賀藩史上の特色のひとつである。寛文元(1670)年、5代前田綱紀による非人小屋の設置はその好例といえる。この設置時期は、幕府の小石川養生所(享保7・1722)や人足寄場(安永9・1780)に先んじるものであり、綱紀の先見性の表出とされている。非人小屋は常置の施設であり、平時の施行・災害時の御救の双方に利用された。幕末には撫育所と改称して養生所の附属施設となり、郊外の卯辰山に移転する。明治4(1871)年に閉鎖を迎えたときの藩主は第14代慶寧、10代・200余年に亘って維持された施設であった。
 この長寿の施設が史料上に存在感を増すのが貧民・難民の動態的な大量発生をみる大規模な災害・飢饉時であるのは論を俟たない。また、そのような非常時には、復興を目的とした各種政策が実施される。
本報告は、それら、非常時の救恤を主たる素材に、近代的人権を知らない近世人の「生存権」と、その背景について検討するものである。



井上毅と参事院
―「制法」と「明法」の分離と統合の観点から―

天野 嘉子(法政大学)


 明治初期から中期にかけての法典編纂作業は、法の運用や施行方法における「体系性」の創出過程でもあった。明治太政官期とも呼称されるその時期は、太政官政府により発出される個別の単行法令である「布告」や「達」が、法分野ごとの「体系的」分類をふまえぬままに数多く蓄積され、法運用を進める立場からはそれらの解釈や適用をめぐって中央官庁に伺いを立てる、いわゆる「伺―指令」体制を不可避な前提とせざるを得なかった。
 立法作業の中枢にいた、「法制官僚」である井上毅は、その「法治」思想に基づき、当時の行政一元的な統治機構内部における「立法」機能の制度化を企図した。
 かくして、明治一四年に設立された参事院の歴史的意義については、従来は、立法府を抑制する機関としての側面に重きを置いて理解がなされてきたが、法制官僚・井上毅に着目するなら、それは単に、立法府における立法のみならず、行政府内部の法案策定作業をも含む、国家の立法作用における行政府の主導権を確保する機関として、さらに、およそ法の運用・解釈における統一性の創造を担う機関として構想されたと評価しうるのである。この彼の構想の背景として、同一四年前後から憲法起草時の同二〇年代に至る時期に、錯雑した法体系の統一的運用の必要性が顕在化していた状況が認められるのである。その際、井上が重視したのは、「法の具体的内容の明確化」(「明法」)のために、参事院の有する権限を可能な限り拡充してゆく方策の採用であり、また、法律の策定や条文化の作業(「制法」)のみならず、それらの公布後の運用をも律する機能を併せ持つ機関としての参事院であった。
 本報告では、明治前期の日本における法治構想の具体的な諸相を、井上毅と参事院をめぐる彼の制度構想の中に読み込もうと考えている。



フランス革命期における恩赦の廃止と大赦の実施

福田 真希(名古屋大学)


 恩赦は、フランス語ではgrâce、すなわち「恩寵」といい、慈悲により刑罰を免除する。一方、大赦は、ギリシア語源のamnestia、すなわち「無」を意味するaと「記憶」を意味するmnestiaに由来し、犯罪の存在を忘れることで刑罰を免除する。フランスにおいて、この二つの制度の違いが初めて強調されたのは、フランス革命期であった。
 革命開始から2年後の1791年、フランスは初の刑法典により恩赦を廃止した。しかしながら、ナポレオン期の1802年に、恩赦は復活している。伝統的に、恩赦が王権と深い結びつきを有していたことや、恩赦廃止の翌年に王権が停止したことをかんがみると、恩赦の廃止は、君主制の廃止と密接不可分の関係にあったように思われる。しかしながら、実際に当時の議事録を参照すると、恩赦の廃止は、王政の廃止そのものとは、ほとんど関係がなかった。恩赦を廃止へと至らせたのは、むしろ、ベッカリーアに代表される、啓蒙期の刑法改革思想の影響である。すなわち、恩赦は、法律により定められた刑罰の確実性を阻害するため有害であり、廃止されるべきなのであった。
 ところが、その一方で、恩赦を廃止した革命議会は、1802年の恩赦の復活までに、少なくとも25回の大赦を行っている。恩赦の廃止を提案したルペルティエ議員によれば、恩赦の禁止は、必ずしも大赦の禁止を意味しなかったのである。革命期の大赦は、反乱の鎮圧などの際に行われている。ゆえに、アンシャン・レジーム期に国王が行っていた恩赦の一種、「罪刑消滅」と大きな差異がないように思われる。革命議会は、大赦によりそれまでの混乱を清算するとともに、新たな秩序を正当化しようと考えていた。また、国王の憲法受入れによる大赦(1791年9月14日)と、恐怖政治の終焉を記念した大赦(1794年8月5日)、そして、国民公会解散の大赦(1795年10月26日)は、いずれも革命を終わらせることを目的としていた。本報告では、フランス革命期の恩赦の廃止と大赦の実施について考察することにより、恩赦と君主制との結びつきを問い直すことを目指している。



ヴェストファーレン条約の「近世」性(仮題)

伊藤 宏二(静岡大学)


 ヨーロッパ近世300年のちょうど中間点に成立したヴェストファーレン条約(1648年)は、その影響力の大きさも手伝って、この時代を二分する指標として利用されることも多い。そして「ウェストファリア体制」などの概念からも見て取れるように、近世後半を特徴づける事象として理解されてきたといえよう。それは概ね説得的であるようにもみえるが、この条約の背景に、それ以前の時代から積み重ねられてきた解決すべき諸問題と伝統的規範が存在していたことは、今さら指摘するまでもなく、限界がある。
  近年、ヴェストファーレン条約の「神話」的な機能に着眼され、その条約像が大きく見直されていることは、その一つの答えともいえる。実際、後世の人々がそれをどのように受容していったのかについて、長期的展望から把握する重要性に疑念の余地はないが、その際、中世以来の伝統の継続性に注意を喚起することで、同条約の「神話」性が相対化されてもいる。しかしながら、そうした展望の中では、逆に時代の連続性の中に同条約を没個性的に埋没させてしまい、近世のまさにあの時期にどんな特質を持った個別的事象として成立したのかという、同時代史における意味を探る作業が棚上げされてはいまいか。
 このように、ヴェストファーレン条約は、これまで中長期的な視点からもっぱら論じられてきて、実は条約そのものの性質についてはあまり議論されてこなかったのではなかろうか。それ自体がいかなるプロセスを経て、どのような意図や期待、妥協が込められて成立したのかについては、いかほど知られているといえるのだろうか。
  以上の疑問を出発点とし、本報告は、ヴェストファーレン条約の成立に主導的な影響力を行使したスウェーデン使節の書簡の分析から条約成立の実態を検証するとともに、それを通じて「近世」の時代性の把握に努め、その中に同条約を改めて位置づける試みである。



清代における秋審判断の構造について

赤城 美恵子(帝京大学)


 清朝は、律例の中で、個別の死刑犯罪ごとに斬・絞などの刑種を規定するほか、その執行の時期についても「立決」(たちどころに処決する)と「監候」(収監してまたせる)との二つに分け明示した。裁判過程を経て、「立決」は皇帝の死刑判決後ただちに死刑が執行される。他方、監候の場合には、皇帝による死刑判決後、さらに「秋審」と称される年に一度の再審理手続を経て、死刑執行相当の「情実」・翌年まで判断を延ばす「緩決」・減刑執行相当の「可矜」の何れかの処遇が定められる。これらの処遇は個々の罪情に応じて決定される。すなわち、一度裁判過程において個別の罪情を勘案した上で死刑相当とした事案について、再度秋審で同じ罪情に基づき死刑の可否を問う作業が行われているといいうる。では、律例・裁判過程での判断と秋審での判断とはどのような関係にあるのか。本報告では、この問題、ひいてはその背景にある「法のありかた」を考察する手がかりとして、秋審判断の構造の解明を試みる。
 秋審手続は、総督巡撫の原案と刑部の原案を叩き台として、中央高級官員の合議体である九卿会審が判断原案をまとめ上奏し、皇帝がそれを裁可するという過程を経る。このうち、刑部において原案が作成される際には、個別の事案毎に複数の官員が一人ずつ見解を付す決まりであった。個々の意見が一致しない場合、また督撫原案と刑部原案とが一致しない場合には、個々の官員の見解が転写された「不符冊」を参考に、刑部部内で会議がもたれて、最終的な刑部原案を作り出した。本報告では、東京大学東洋文化研究所に所蔵される「不符冊」を用いて、一人一人の刑部官員が、秋審判断の際に、いかなる要素を判断要素として取り上げたのか、彼らがいかなる思考のもとで結論を導き出したのかについて分析し、秋審判断の構造及びその特徴を明らかにする。



【特別講演】「天聖令」残本をめぐる研究動向

池田 温(東京大学名誉教授)


 戴建国(上海師範大學教授)「天一閣蔵明抄本《官品令考》」(歴史研究1999―3)が、浙江省寧波市にある明代以来著名な蔵書楼「天一閣」において<官品令>と題する旧法典に注目紹介してから、内外の法史学者の関心をあつめ、北京の中国社会科学院歴史研究所の宋家鈺を中心とする数名の研究グループが組織され、全容(田令巻第二十一~雑令巻第三十)の精良な影印と校録・考証を併載する大著『天聖令校證―附唐令復原研究』(上下両册、中華書局、2006年11月)が公刊され、本格的研究が展開された。
 わが国では、中国法制史専攻の岡野 誠がいちはやくその重要性に着目、「明鈔本北宋天聖令残巻の出現について」(法史学研究会々報7、2002年9月)を公表した。
 日本古代史研究者大津 透中心の研究グループ12名は黄正建を加え、東京の史学会大会でシンポジウム「日唐令比較研究の新段階」を実施し(2007年11月)、翌2008年11月同名の論文集が出髙版された。
 北京では、2008年6月、中国人民大學で「《天聖令》研究―唐宋礼法与社会」学術研討会が挙行され、《唐研究》第十四巻(天聖令及所反映的唐宋制度与社会研究専号)大册、劉後賓・栄新江の巻首語を冠し、論文廿数篇と臺北の髙明士らの研究集会成果を書評論文としてとりこみ、出版された(日本の<唐代史研究>12号2009年8月掲載の吉永匡史・武井紀子書評参照)。
 臺北でも2009年11月天聖令をめぐる研究集会が行われ、臺師大歴史系・中國法制史學會・唐律研讀會主編『新史料・新觀點・新視角《天聖令》論集』(上下両册、元照出版公司、2011年1月、32篇収)が出版された。
 その他宋代法史専攻の川村 康は「宋令変容考」(関西学院大<法と政治>62―1号、2011年4月)の労作を公刊。
 また北京で黄正建主編『《天聖令》與唐宋制度研究』(中国社会科学出版社、2011年3月)に《天聖令》文本研究、駅傅與過所、倉庫與給糧、醫療與休假、営繕制度、喪葬禮令與喪葬法式、諸色人制度の7編廿章に整理叙述されて出版、必読にあたいする。



プロソポグラフィ的検討によるマクデブルク参審人団研究試論

佐藤 団(京都大学)


 本報告は、中世ドイツのマクデブルク都市法について、その担い手である参審人団に焦点を当て、プロソポグラフィの手法による分析および検討を行う。
 マクデブルク法研究は、近年EU拡大の中で、その伝播史については進展が見られるが(研究史およびテーマの概観については拙稿「EU拡大とヨーロッパ都市法研究」『法制史研究』59、191-221頁を参照されたい)、その中心地たるマクデブルクにおける状況については殆んど進展しておらず、分けても同法圏の法の担い手であった参審人(団)については、19世紀に形成された伝統説が検証されることもなく、等閑に付されてきたといっても過言ではない。一体誰が参審人だったのか、という最も基本的な問題さえ正面から取り組まれたことは無かった。
 上述の如き研究の空白状況は、マクデブルク法(およびその市制)を継受した中・東欧の諸都市との制度上の比較対象の欠如を意味し、同法そのものの理解にも影響を与え、何よりもマクデブルク参審人団の消滅原因の検証に必要な事実認識の欠如を意味した。この間、参審人(団)については専ら一九世紀の学説――一二世紀から成長し、一四~一五世紀に隆盛期を誇り、その後ローマ法の浸透と領邦政策の進行によりマクデブルクへの求法行(Rechtszug)が減少し、時代遅れになって、最終的には一六三一年のマクデブルク陥落で姿を消す――が史料的な検証を経ることなく維持されてきた。
 こうした状況に鑑み、報告者は関係資・史料の網羅的な再検証に加え、マクデブルク市文書館等での調査によって得た未刊行史料を基に、マクデブルク参審人に関するプロソポグラフィ的調査を行った。その際、特に、これまで検討の対象とされることの少なかった大学学籍簿を精査した。その結果、これまでの通説とは異なるマクデブルク参審人像が浮かび上がってきた。
 本報告では、こうした検討の結果明らかとなった、通説とは異なる、マクデブルク参審人の新しい像を提示し、そこから導き出される今後の検討課題について若干の示唆を試みる。



古代日本律令制の特質
―天聖令の発見・公刊によってみえてきたこと―

大津 透(東京大学)


 律令制研究は、日本古代史研究においては、律令国家といわれるように中心となる研究テーマであり、律令法は継受法であるという性格上、唐の律令との比較が不可欠の作業である。散逸した唐令の復原研究は、1933年の仁井田陞著『唐令拾遺』以来主に日本で進められてきた。1997年に『唐令拾遺補』が刊行され、復原研究はほぼ集成されたと考えられたが、1999年に戴建国氏により寧波天一閣で北宋天聖令の写本が「発見」され、2006年の中国社会科学院歴史研究所による全文の校訂・公刊により新たな研究段階に入ったといえる。
 伝存した天聖令は全三または四冊のうちの一冊だけであり、篇目としては十二だけですべての分野には及ばないが、天聖令の発見をもとにそこに伝えられた唐令逸文の検討や宋令条文による唐令復元作業が進められ、新たな唐令の知見との比較による多くの日本律令制の研究がなされてきた。もちろん中国北宋代の法律が発見されたのであるが、唐宋史研究よりもおそらくそれをふまえて比較する日本古代史研究者のほうが遙かに多いのが、日本の歴史学界の特色である。ここでは何が新たにわかったのかを、全体を見渡しておおざっぱに述べることを試みたい。
 日本史研究者の中には、天聖令から復原される唐令の条文を見て、思っていたよりも唐令に日本令が似ていたとの感想もあり、従来の研究手法への反省が語られることがある。しかし形式的類似にもかかわらず、質の違いがあることは社会の発展段階の差からも明らかである。ここでは日本令編纂にあたってもっとも大きく唐令を改変した篇目と考えられる賦役令をとりあげて、その変更の意味を考えることをきっかけに、さらに士農工商、軍事と財政、班田収授制などの論点にも言及して、古代日本律令制の特質に迫り、今後の課題と展望を示すことができればと思う。



18世紀コモン・ロー法学史探訪
―法律書販売カタログを通して見えてくるもの―

深尾 裕造(関西学院大学)


 18世紀イングランドは、組織的な法学教育を欠如した時代であった。17世紀中葉以降法曹院の教育訓練システムは崩壊し、19世紀半ばまで、その教育機能が復活することはなかった。大学でも18世紀半ばにジェントルマン子弟対象のヴァイナ講座が設けられたものの、ダイシーの時代まで本格的な法学教育が大学に定着することはない。
 しかし、アダム・スミスが述べたように、18世紀イングランドはヨーロッパで法の確実性が最も高い国へと発展し、そのことがイングランドの経済的発展を支え、18世紀後半フランスのアングロ=マニアを生み出したことを考えれば、18世紀コモン・ロー法学のあり方を19世紀後半の立法改革の時代の視点からではなく、18世紀の時点に立って見直してみる必要性があるのではないだろうか。
 従来の研究では、法曹院の教育訓練制度崩壊の要因の一つとして、印刷術導入による法律書の普及と、読書による法学習のはじまりが挙げられてきた。法曹院教育訓練制度崩壊は法律書の普及にのみに帰せられないではあろうが、この公式の法学教育制度が欠如する時代に、コモン・ローの法知識を普及し、新たな発展を伝える上で重要な役割を果たすこととなったのが、これら18世紀の法律書出版の活況であったことは疑いを得ない。
 幸い、18世紀法文献に関しては、その大部分がデジタル化され入手しやすくなっており、日本における18世紀法史研究の基盤も整いつつある。18世紀法学史研究のための課題は、むしろ、この膨大な資料の活用の仕方とそのための方向性を見いだすことにあろう。本報告では、この期に出現する出版社の法律書販売カタログの分類方法、出版動向とその変化を分析し、これら膨大な資料から、当時のコモン・ロー法学の姿を探り出す手掛かりを得ることに努めたい。



近世江戸の都市法とその運用・施行に関する一試論
―『類集撰要』(旧幕府引継書)巻七・巻八を素材として―

坂本 忠久(東北大学)


 近年の近世都市に関する研究のなかで、特に注目を集めているテーマの一つとして、都市法(町触)自体の分析や町触を主な手がかりとして展開された一連の研究を挙げることができるであろう。その考察の対象とされている都市は、三都のなかでも京都、大坂が中心となっていると思われるが、いずれの研究も近世都市史研究の最近年の進展ぶりを示しているとともに、「町触」の分析が依然として重要な課題であることを我々に再認識させるものと言ってよいであろう。ところが、その一方で、江戸の法(町触)自体を正面から扱った研究は、京都や大坂の場合と比較しても、相変わらず少ないと言わざるを得ないのではなかろうか。近年刊行が成った『江戸町触集成』も、十分に活用されているとは言いがたいのである。
 そこで、本報告では、上記のような研究状況の克服に多少なりとも資することを期して、江戸の都市法を考察の対象とし、とりわけこれまで必ずしも十分に追究されることのなかった都市法の運用や施行のあり方を分析することを通じて、近世都市における「法」の新たな側面に光を当てることを課題としたい。その具体的な方法の一端を示すならば、これまで主に分析の対象とされてきた「町触」だけでなく、本報告で主に依拠する『類集撰要』や『江戸町触集成』に収められている町年寄や与力が発給主体となっている「尋」やその回答を含めた行政法規等も同時に視野に入れ、それらの「町触」との関連性等を探りながら、都市法としての具体的な機能について俎上に載せることを試みることとしたい。また同じく本来は町役人の間で自主的に交わされるはずの「申合」に関しても、都市法のなかで重要な役割を担っていたことを指摘する予定である。
以上の分析を前提として、江戸における都市法全体の特色、さらには近世法全般に関する通説的な理解についても、若干の提言をすることができればと考えている。

以上




見学会のご案内


 金沢で開催されました前回1986年度秋の研究大会では能登方面を主に見学しましたが、今回は加賀の白山麓を中心に見学会を開催します。
 長享2(1488)年に加賀守護の富樫政親が一向宗門徒により攻め滅ぼされて以来、教科書にあるように加賀の国は「百姓ノ持タル国」とも称されました。しかし、戦国時代末期になり織田信長の天下取りが進む中で、天正8(1580)年石山合戦の終了後、本願寺の加賀支配の拠点である金沢御堂<みどう>が、柴田勝家等の攻撃により陥落しました。にもかかわらず白山麓の一向宗門徒の山内衆は、その後も鳥越<とりごえ>城跡・二曲<ふとげ>城跡を最後の拠点として天正10(1582)年まで頑強に抵抗を続けました。最後は300人に及ぶ門徒が磔刑に処せられたそうです。
 今回の見学では、加賀を舞台として戦国期に展開された史実を追って、富樫政親の居城であった高尾城跡、そして一向宗門徒の最後の拠点となった山城である、鳥越城跡・二曲城跡等をまず午前中に訪れます。いずれも山道や階段をかなり登り歩きする必要がありますので、申し訳ありませんが心臓等に疾患のある方や足腰に不安のある方はお控え下さるようお願い申し上げます。また特に足許にはご留意願い、高いヒールは避けて歩きやすい靴等をご用意下さい。
 予定では一揆蕎麦「長助」にて昼食、午後は「吉野工芸の里」に立ち寄った後、かつての白山麓5ケ村の一つ白峰<しらみね>にあります「白山ろく民俗資料館」を見学します。ここには江戸時代の白山麓の庶民の生活の様相をそのままに映し出している様々な家屋、物品が展示され、当時の生活の実態がリアルに再現されています。白山信仰、焼畑と出作り、民俗芸能、その他の様々な資料にじかに触れることが可能です。帰途、時間が許せば加賀一の宮である白山比咩<しらやまひめ>神社にも立ち寄りたいと考えています。なお、当初、時間が許せば加賀郡ぼう示札を見学する予定との案内をしていましたが、行程の関係上から割愛させて頂きましたこと、お詫び申し上げます。

 日 時:2012年6月18日(月)午前8時45分集合(金沢スカイホテル裏)

 参加費:7,000円(昼食代、入場料を含む)
 参加ご希望の方は、開催案内に同封の振込用紙に必要事項をご記入の上、5月31日(木)までに振込手続をお願いいたします。
 なお、山城に至る道路が狭隘のため、小型バスになります。バスは2台まで用意していますが、人数がオーバーした場合、それ以上は対応できませんのでよろしくご容赦お願い申し上げます。

 行 程:午前8時50分、金沢スカイホテル裏を出発
      →高尾城跡
      →二曲<ふとげ>城跡
      →鳥越<とりごえ>城跡
      →昼食(一揆蕎麦「長助」)
      →「吉野工芸の里」
      →「白山ろく民俗資料館」
      →白山比咩<しらやまひめ>神社
      →午後5時40分頃、金沢駅前にて解散の予定

 案 内:平瀬 直樹氏(金沢大学人文学類准教授・日本中世史)