法制史学会第58回総会のご案内


 法制史学会第58回総会を以下の要領で開催致します。会員の皆様におかれましては、奮ってご参加下さいますよう、ここにご案内申し上げます。
 ご参加の申し込みにつきましては、同封の郵便振替用紙に必要事項を記入の上、4月7日(金曜日)までにお振込の手続をお願い申し上げます(郵便為替口座番号:00150-9-427741、口座名称:慶應義塾大学法制史学会準備委員会。なお恐縮でありますが、振込手数料につきましては各自ご負担の程、お願い申し上げます)。

 1.研究報告
 第1日目  2006年4月22日(土曜日) 午前10時開始(受付9時半開始)
 第2日目  2006年4月23日(日曜日) 午前10時開始(受付9時半開始)
 会  場  慶應義塾大学三田キャンパス・西校舎1F 517番教室
       〒108-8345 東京都港区三田 2-15-45
 参 加 費  1000円

 ※慶應義塾大学までの地図、及びキャンパス内の校舎等の配置などについては、同封のプリントをご覧下さい。ホームページ上でもご覧頂けます。http://www.keio.ac.jp/access.html
 ※当日のお問合せにつきましては、ダイヤルイン方式で、03-3453-4521にかけてつながった後、発信音に重ねて23018をプッシュして下さい。

 2.懇親会
 日  時  2006年4月22日(土曜日) 午後6時開始予定
 会  場  慶應義塾大学三田キャンパス・北館1F 「ザ・カフェテリア」
 参 加 費  5000円
       ※同封の郵便振替用紙に参加ご希望の旨ご記入下さい。

 3.昼 食
 土曜日についてはキャンパス内の学生や教職員専用の食堂が営業致しており、またキャンパス外の近隣にも食堂がありますので、それらをご利用頂くことも出来ます。ただ、各種委員会の委員の先生方におかれましてはもとより、プログラムの進行の関係上、昼休みの時間が短縮される可能性もあり、両日とも準備委員会でご用意致しますお弁当(1000円)をご利用下さるのが便利かと存じます。
 ※同封の郵便振替用紙にご希望の旨ご記入下さい。

 4.宿 泊
 ご参考までに、大学生協からのご案内を同封してあります。特に会場近辺のホテルにつきまして、このご案内にてご宿泊を希望される方は、各自大学生協へのご連絡をお願い申し上げます。

 今回見学会は予定しておりません。
 第58回総会についてのご質問は、下記のところへお願い致します。

2006年3月10日
法制史学会第58回総会準備委員会

〒108-8345 東京都港区三田2-15-45
慶應義塾大学文学部長谷山研究室内
長谷山彰 03-5427-1169(直通)(内線23422)
email:ahaseyama@a3.keio.jp
岩谷十郎 03-5427-1390(直通)(内線23315)
email:juro@law.keio.ac.jp
慶應義塾大学 03-3453-4511(代表)



総会日程


 第1日目 4月22日(土曜日)

10:00〜10:10開会のご挨拶
特集「実践としての法−解釈技法の歴史」
10:10〜10:15趣旨説明岩谷十郎(慶應義塾大学)
10:15〜11:15前近代日本の法曹−明法を中心に梅田康夫(金沢大学)
11:15〜12:15古代ローマの弁論家の法的実践知平野敏彦(広島大学)
12:15〜13:15昼食・休憩
13:15〜14:45総会
14:45〜15:45法文の解釈について−近世法学史の経験からの若干の模索田中 実(南山大学)
15:45〜16:00休 憩
16:00〜17:00唐代の「守法」のレトリックとその背景岡野 誠(明治大学)
17:00〜17:30質疑応答
18:00〜懇親会


 第2日目 4月23日(日曜日)

10:00〜11:00八世紀の木工支配と木工寮十川陽一(慶應義塾大学)
11:00〜12:00ボアソナード草案「不法行為法」の構造とその受容櫛比昭人(慶應義塾大学)
12:00〜13:00昼食・休憩
13:00〜14:00秦の城旦舂労働の特異性−前漢文帝の刑法改革にいたる遠因の一つとして石岡 浩(明治大学)
14:00〜15:00中世寄進状の機能とその効力−「仏陀施入之地不可悔返」の再検討を中心に神野 潔(武蔵野学院大学)
15:00〜15:15休 憩
15:15〜16:15アメリカ法制史学事始−何故アメリカ法制史は学ばれないのか大内 孝(東北大学)
16:15閉会のご挨拶



【報告要旨】

前近代日本の法曹 ―明法を中心に
梅田康夫(金沢大学)


 本報告では、法曹と称される平安期における明法について、近世江戸期の法曹ともいえる公事宿や下役人と対照しつつ、その機能と役割や法解釈の特徴等について論じたい。
 今日の法曹、とりわけ弁護士の前身として、近世江戸期の公事師・公事宿について多くの研究が蓄積されてきたことは周知のところである。最近の吉田正志氏の研究は仙台藩の御用宿の実態を明らかにし、下請け行政機関としての性格をもちつつも、特に江戸の公事宿については訴訟援助者としての役割と機能をもっていたことをあらためて強調している。他方、幕府法曹役人としての評定所留役や吟味方与力については、最近の神保文夫氏の研究がその実態や性格をより明らかにしている。藩においてもこのような法曹役人が存在したことは、例えば金沢藩の公事場奉行の下に置かれた公事場役人から推測できる。このように近世江戸期の法曹は、訴訟援助者としての公事宿と、法曹官僚としての下役人という、二種類の法律家集団からなる分離型法曹と特徴づけることができる。
 『法曹類林』や『法曹至要抄』といった書名に端的に示されているように、法曹という用語は既に平安期から用いられていた。日本における法曹の最初の確かな用例と思われる永治2年(1142)の「検非違使庁申文」にみえる「法曹之士」という表現は、明らかに明法ないし法家と当時呼ばれていた法律家集団をさしていた。
 周知のごとく平安期の明法は、様々な法律書の編纂や明法勘文等による判決草案の作成のほか、法家問答という形式で各種の律令解釈に関する疑問に答えていた。そして注目すべきは、民事的な紛争に関して、いわば私的な形で相談活動を行なっていたことである。このような法家問答の存在は夙に瀧川政次郎博士によって指摘されていたが、数は多くはないが他にもいくつかそのような類例を挙げることができる。こうした明法の活動や機能を全体的に眺めると、それは法の運用・解釈を一手に担う法律家集団、判検事的機能と弁護士的機能が一体化された、一体型法曹と特徴づけることができる。
 この明法の法解釈技術等については、佐藤進一、小林宏、長又高夫氏等の優れた研究が既に存在する。本報告では、近世江戸期の下役人の法解釈が先例や類例を重視した事例型法解釈であったのに対し、明法の法解釈は、語義的な解釈と素朴な論理展開を中心とした注釈型法解釈であったことを、明法勘文を素材にして指摘したい。


古代ローマの弁論家の法的実践知
平野敏彦(広島大学)


 古代ローマの弁論家キケロ(前106年〜前43年)の主著『弁論家について(de oratore)』(前55年)の翻訳が岩波文庫化され,入手しやすくなったので,2005年後期の法科大学院の授業「レトリック理論」でテクストに使用して,学生と通読することにした。レトリックのトポス論を基軸にした実践的な法学方法論の可能性を追求している一法哲学者として,実務法曹をめざす現代の学生が古代弁論術(レトリック)をどのようにとらえるかは興味津々であった。学生の読み方は各人の関心に応じて,歴史として読む者,法律学習や答案作成のヒントを読み取る者,法廷における弁論活動の実践の例としてみる者など様々であった。その中で,ほとんどの学生が共通に違和感をもったのは,「弁論家にとって市民法(ius civile)の知識が必要かどうか」という議論であった。実はこの点にこそ,古代ローマ共和制末期の法実践・法思考の特徴が端的に表れているのである。
 学生は弁論家=弁護士というイメージで読み進める。弁護士は当然,法曹=法律家(lawyer, Jurist)であるが,ローマの弁論家にはそういう位置づけは与えられない。他方,法律と慣習に精通し,法律事件に対し意見解答を与え(respondere),訴訟行為に必要な方式を組成し(agere),法律行為の実行に助力する(cavere)者として(Cic.de or.1,212),法学者(集団)が法の専門家として存在する。しかし,法学者は原則として法廷そのものにはかかわらず,法廷は弁論家の活躍の場なのである。キケロ自身が『トピカ』の中で,法学者アクィリウス・ガルスの言葉として伝えている「これは法〔法学者〕の問題ではなく,キケロ〔弁論家〕の問題である」(Cic.top.51)は,事実問題に限った言明のように見えるが,弁論家の弁論は法律問題を扱うことももちろんある。訴訟の判断者たる審判人を説得するのに必要であれば,弁論家のとる手段に限定はない。ただ,有効かそうでないかがあるだけである。
 はたしてここに見られる弁論家の「実践知」は,理論と実践の架橋のモデルたり得るのだろうか。本報告では,弁論家が用いる論証(argumentatio)の構造分析を通じて,彼らの思考の特色を浮かび上がらせたい。


法文の解釈について ―近世法学史の経験からの若干の模索
田中 実(南山大学)


 本報告は、法制史の新たな研究成果を披露するというよりも、中世法学から人文主義法学(復古学派)への法解釈学の展開を―ごくわずかに断片的にではあるが―調べてきた報告者が、法学教育と法曹養成課程の改変の中で、法的なテクストの解釈をめぐる西欧の歴史的経験を如何に教育に組み込み学生に伝えるかについて模索するところを紹介しようとするものである。
 周知のようにGl. interpretationem ad D.1.2.1は、言葉の明白な意味を示すことと、それを拡張・縮小することを解釈の二つの営みと捉えているが、さらに類推適用も解釈をめぐる議論の枠内で論じられるのが通例である。従来の学部教育では、初学者は最初に民法総則で94条2項の類推適用などに直面しとまどってきたと思われる。そこで、報告者は、一方で表示verbaと真意mens・根拠目的ratioといった区分、他方で正規法ius communeと変則法ius singularis・逸脱法ius exorbitansといった法の分類を用いた中世普通法学における法解釈の基本的な議論枠組みを提示し、サヴィニーの整理を対置させつつ、日本での解釈手法について考えるきっかけを与えてきた。
 法科大学院では、金融取引法として債権法、担保法、訴訟・執行法、破産法を一体として関連づけ、実体法の条文理解の最初から要件事実論を念頭におき、各制度の意義を確定しそれらを横断的に把握する教育がなされており、かつまたこれまで以上に思考プロセスを重視する教育が要請されている。報告者は、先にあげた学部での試みに加え、学生が直面する条文解釈に対する疑問を念頭におきながら、ローマ法大全の法文が中世法学および人文主義法学においてどのように解釈されてきたかを、こうした法曹養成課程で意味を持つような形で提示することが可能であるかを探りたいと考えている。
 この試みの素材として、報告では、中世・近世法解釈方法論文のほか、離婚にあたっての嫁資果実分配を論じるD. 24. 3. 7. 1、相続財産の奴隷を通じての占有取得の可否に関するD. 41. 2. 1. 16、占有の2つのratioを述べるC. 7. 32. 10、無方式の免除合意と連帯債務や保証債務を扱うD. 2. 14. 21. 5, D. 2. 14. 23などに対する中世法学や人文主義法学解釈などを取り上げる予定である。


唐代の「守法」のレトリックとその背景
岡野 誠(明治大学)


 唐宋時代の諸文献(『唐会要』『通典』『冊府元亀』『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』等)中に唐代の「守法」「守正」に関する一群の史料がある。前近代の中国語の「守法」には、単に法を遵守するという用法の他に、上述した諸史料に共通して見られるように、主として官人が、皇帝の命令に抗して生命がけで法を守るという用法がある。
勿論「守法」が当時の官人達の一般的行動様式であった訳ではない。皇帝の命令が、実定法を基礎付けるものであり、時として実定法を越える最高の法であった伝統中国では、皇帝の命令に反することは、ほとんど生命を賭すことと同義であった。
 「守法」においては、簡潔な論述あるいは的確な文章表現の中で、皇帝や官人達を説得し、法を守り、又被告の生命を守り抜かなければならなかった。
今回の報告の中では、「守法」において展開された様々なレトリックとそれを支える諸要素について、具体的に検討してみたいと思う。
 一例をあげるならば、唐初の貞観年間、貝州の県令の裴仁軌が門夫を私用に使ったことが明らかになり、そのことに怒った太宗は斬刑に処すように命じた。これに対して殿中侍御史の李乾祐が奏上し、「法令は、陛下之を上に制し、率土下に於いて之に遵う。天下と之を共にし、陛下の独有に非ざるなり。仁軌軽罪を犯して極刑に致すは、便ち画一の理に乖く。臣憲司を忝うす、敢えて制を奉ぜず」と主張して、仁軌の生命を救った。
 要するに法は天下即ち民と共有するものであって、皇帝一人のものではない。官人が門夫を私用に使ったくらいで斬刑に処すなど、「画一の理」に反するというのだ。「画一」という言葉は、前掲諸史料に散見する。唐以前の諸王朝の記録の中にも見られる。そしてその原型と思われるものが、『史記』に記す前漢初期の百姓の歌「蕭何法を為り、(あきらか)なること一を画くが若し、曹参之に代わりて、守りて失勿く、……」である。すなわち「画一の理」というレトリックの背景にあるのは、前漢の名相である蕭何の作った法が、秦の煩苛なものとは異なり、簡潔平明であることを称える民衆の思いである。時間の流れに即して言えば、蕭何の立法の一大特色を「(あきらか)なること一を画くが若し」と称賛したという伝承が、やがて唐代に至りより洗練されて法的論理としての「画一の理」に昇華したと考えるのである。
 他のレトリックも、それぞれ異なる背景をもっており、同様な検討を試みたい。この報告を通じて、唐代の「守法」を支えている漢唐間の法文化の関連性(唐が漢の法文化に学んだことによる)を明らかにできればと思う。


八世紀の木工支配と木工寮
十川陽一(慶應義塾大学)


 報告者はこれまで、日唐の比較をもとに古代における宮都造営について検討してきた。唐では令に規定された官司である将作監が、文書行政上の手続から造営工事に至るまでの実務を全て担ったのに対し、日本では労働力徴発・資材調達といった事務手続は令制官司である木工寮が、そして宮殿造営は造宮省をはじめとする令外官司が担当したことが確認される。またこれら令外官司は天皇家との人格的結合が強いと考えられること、日本令においては宮殿造営に関する具体的規定がみえないことなどから、少なくとも八世紀の日本においては宮を造るという行為は、律令の外の存在として、天皇家と密接に関わって行われた事業であったことを指摘した。
 さて令に規定された造営官司である木工寮については、先行研究も報告者の見解も造営に関わる行政手続を担当し、実際の造営現場においては主たる役割を担わなかったものとみて一致している。しかしこの理由に関して、木工寮に関する先駆的業績である長山泰孝氏の論考においては、
内廷官司という枠のなかから出発した木工寮はその制約から脱することができず、大規模な造営を独力で行うことが出来なかったため、(九世紀以降も)依然として造営専当官司が並行しておかれる状態にとどまった。〔長山泰孝「木工寮の性格と造営事業」(『律令負担体系の研究』塙書房、一九七六年、括弧内引用者)〕
とされるように、根本的に「内廷官司」に過ぎないという位置づけがなされている。しかし前述の如く、大規模造営に令外官司が設置された理由については、天皇家と密接に関わる事業であったために敢えて令外官司として設置されたものと考えられる。すなわち木工寮以外に造営官司が設置された原因は、事業の性格に起因するのであって、木工寮の規模が小さいという点は主たる要因ではないと思われる。
 唐将作監も木工寮も、工人を抱えているという点では共通している。しかし一方は造営工事を実際に主導し、他方は事務手続にウエイトがおかれ実際の現場においては必ずしも主導的役割を担ったとは考えがたい。そこで本報告では、八世紀の工人支配において木工寮が担った役割を中心に検討を加えることとしたい。


ボアソナード草案「不法行為法」の構造とその受容
櫛比昭人(慶應義塾大学)


 日本においてボアソナードが旧民法の草案やその注釈書を起草・執筆していた頃、フランスでは、不法行為法の領域における「無生物責任法理」が形成されつつあった。かかるフランス民法の不法行為法の変動期において、ボアソナードが起草した不法行為法の構造や、それを構成する基礎概念を吟味することは、外国の法制や法学説の日本への継受に際してボアソナードの果たした役割を再検討することに他ならない。
 また、明治民法709条の起草過程に関するこれまでの研究を顧みると、「ボアソナード草案」の不法行為法とフランス民法の不法行為法は同一視される傾向があり、「ボアソナード草案」の不法行為法それ自体の検討が十分に行われていない状況である。したがって、明治民法の立法的「前提」となった「ボアソナード草案」の不法行為法の構造、及び、その基礎概念の検討は、明治民法の不法行為法の編纂史を考察する上でも、重要な意義を有すると考える。
 かかる問題点を念頭に入れて、以下の作業を行うのが本報告の目的である。まず、フランス民法との関連を踏まえ、「ボアソナード草案」の不法行為法における基礎概念の意味を検討し、不法行為の一般要件を規定する条文(草案390条)の構造を明らかにすることである。つぎに、「ボアソナード草案」から明治民法に至る道程での法概念の変遷過程を検討し、明治民法起草過程における、不法行為法編纂の一端を明らかにすることである。


秦の城旦舂労働の特異性 ―前漢文帝の刑法改革にいたる遠因の一つとして
石岡 浩(明治大学)


 伝統中国法の発達史では、一般に、戦国時代の各国の法が六国を統一する秦の法に集約され、それを前漢王朝が継承し、魏晋南北朝時代の律の編纂・改正を経て、その集大成として唐律が現れたとされる。その唐律の定める刑罰は五刑二十等を主刑とする整然とした体系をもつ。一方、唐を遡る時代の律は伝存しなかったが、近年、長江中流域の各地で発見された出土文字資料によって、戦国時代の秦から前漢王朝初年までの法、すなわち前漢の文帝の刑法改革以前の法制度について、その実態を俯瞰する材料が揃いつつある。
 そこで本報告では、戦国秦の睡虎地秦律と前漢初年の張家山漢簡「二年律令」を使用して、後代の刑罰制度にない、この時代の刑罰の特質を示すつぎの二点を整理する。
 まず一点は、主刑となる罰金刑・労役刑(耐刑・城旦舂刑)・死刑のあいだで付加的に適用される刑罰が設置され、それが「刑罰格上げの猶予・回避」の役割を果たしたことである。たとえば秦特有の刑罰として悪名高い肉刑は、労役刑が死刑に格上げされるのを回避し、また唐律では官品を有する身分に許可される贖が、前漢初年までは労役刑より軽い位置にあって、無期の労役刑への格上げを回避する役割を果たす。また二種の労役刑のあいだに、軽い耐刑から重い城旦舂刑への格上げを猶予・回避するさまざまな刑罰が設定されている。これらの付加的な刑罰の多くは城旦舂労働への参加に読み替えられて、有効な労働力となる。酷刑と称される秦の刑罰にこのような回避が設定された理由は、この時代が、城旦舂の労働力をとくに必要としたからであった。
 もう一点は、二種の労役刑のうちの一つ、城旦舂刑の刑罰効果である。軽重異なる労役刑徒に対して、同じ労働現場で労働強度のみ区別するのは困難がある。そこで戦国秦では、耐刑の労働を県の管轄下に置き、城旦舂の労働は軍の管轄する土木労働現場に移動させるよう区別していた。のち土木を主とする城旦舂の労働がさほど必要ではなくなったとき、むしろ行政機関の管轄で働く耐刑の労働力を主とするべく、制度自体を変える必要が生じる。それが前漢文帝刑法改革にいたる原因の一つではないであろうか。 
 これらの特質は、前漢文帝刑法改革以前の刑罰制度がのちの唐の五刑二十等とはかけ離れた内容であったことを示す。とはいえ唐の刑罰にその名残りがないわけではない。時間が許せば、その名残りについても考えてみたい。


中世寄進状の機能とその効力 ─「仏陀施入之地不可悔返」の再検討を中心に
神野 潔(武蔵野学院大学)


 本報告では、鎌倉・室町両幕府の発給した寄進状について、その様式と機能の連動性について古文書学的に整理した上で、寄進の効力に関わる法観念「仏陀施入之地不可悔返」(以下「仏陀法」)の再検討を行う。寄進状は、個人的信仰心に基づいて所職等を神仏に寄附する私文書であり、鎌倉幕府が当初発給した将軍書下様式の寄進状もその機能を持つ。しかし、異国降伏祈祷の恩賞給付として大量の寄進状が発給されたのを契機に、関東御教書様式での発給が定着して公文書となると、安堵や裁許の機能も新たに付されるようになる。南北朝初期における尊氏発給の寄進状も、建武五年頃から署判の位置が統一されて公文書として機能し、安堵や裁許の機能を持つものも現れる。本報告では、このような両幕府発給寄進状に共通する機能の変化を前提とし、「仏陀法」の生成とその変化について検討を試みる。
 笠松宏至氏により提唱された「仏陀法」は、「仏物」は「人物」に返らないという観念を前提とし、一度寺社に寄進された所領は寄進者・子孫からの悔返を許さないという「法理」で、鎌倉中期に成立し中世末期まで存在するとされる。本報告では、その存在時期について笠松説を改め、鎌倉前期において既に幕府成文法の上位規範として確認できる慣習法「仏陀法」が、鎌倉後期から南北朝期にかけて幕府権力により克服されていく過程を、具体的に示したい。例えば、延応元年の追加法151条は、御家人の自由な寄進を幕府が制限する内容で、幕府法の上位規範的慣習法として「仏陀法」が存在する証左となる。一方、尊氏が発給した有限の造営料所寄進状(@)や、鎌倉後期から南北朝期にかけての幕府の寄進安堵(A)、あるいは南北朝期に見られる本文に担保文言として「仏陀法」を明記する御家人寄進状(B)は、「仏陀法」の効力の変化を示す例である。@では、「仏陀法」の前提原則たる「仏物」は「人物」に返らないという観念は見出せず、Aは被寄進者たる寺社が上位権力からより強固な保証を求める行為であると位置づけられ、本来寄進行為そのものに等しく付随していたはずの「仏陀法」の観念が、上位の権力が発給する寄進状により強い効力として存在していると捉えられる。Bは担保文言として明記しなければ、「仏陀法」が機能しなくなった可能性を示していると言える。以上のような具体的事象の原因として、寄進状の機能の変化(寄進そのものの概念の変化)との関連性を指摘しつつ、「仏陀法」の基礎的な見直し作業を行いたいと考える。


アメリカ法制史学事始 ―何故アメリカ法制史は学ばれないのか
大内 孝(東北大学)


 報告者(以下大内)が本学会に入会した際(1992年),専門として登録したのは「西洋」であったが,その中でも特にアメリカの法制史を学んできた。当時,わが国における「アメリカ法制史学不在の現状」は,素人同然の大内の目にも明らかだった。いわゆる西洋先進諸国の中で,とりわけアメリカがわが国との諸関係を濃密化し,広くアメリカに関連する学問分野・学会が増加・多様化を続ける一方で,不思議なことに,独り「アメリカ法制史」研究は,一向に増加・充実のきざしを見せない。これは何故か。
 実は,アメリカ本国においても,(イギリス法制史と区別される)アメリカ法制史学は長く未開拓分野であった。それが1970年代以降,急速に数量的隆盛に転じ,20世紀前半と比して,現在数十倍と言われる「学術論文」が量産されている。その中で,「アメリカ法制史のMaitland(イギリス法制史学の生みの親とも言うべき象徴的・権威的存在。1850-1906)」の出現が待望されて久しい。しかし,これに比すべき学者が現れたという話は聞かないし,その徴候すらない。何故か。
 要するに,わが国におけるアメリカ法制史研究の実質的に不在に近い情況;アメリカにおける同研究の,近年の数量的隆盛;しかし「アメリカのMaitland」の未出現,この3面が,米日における同研究の現状を端的に表している。この現状の真の所以と問題点を,以下のポイントに絞って考察したい。
 本報告では,時間の都合上,この中でも特に第1のポイントに力点を置き,わが国における本研究の学識が,本国の研究系譜にあてはめれば,遠くパウンド(Roscoe Pound,1870-1964)から実は一歩も出ていないのではないかという問題を指摘したい。