第56回総会・研究報告概要




「葡萄牙領事裁判権廃棄一件―明治27年条約改正以前―」
中網栄美子(早稲田大学・院)

 幕末から明治初年にかけて結ばれた西欧諸国との不平等条約につき、領事裁判権については、岩倉使節団による条約改正予備交渉を端緒に、寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光らの改正交渉を経て、明治27年に日英通商航海条約締結及び明治32年の同条約発効により一応の終結をみる。不平等条約の相手方となった国の中にはポルトガル、スペイン、オランダ、なども含まれる。英米仏に比し、これらの国の領事裁判についてはこれまで十分研究されてきたとはいえない。その理由としては、条約内容に大した相違のないこと、在留者が少なく、従って交易もさほど活発ではなかったこと、実際の事件に見るべきものがないと考えられてきたことがあげられよう。しかしながら、列強諸国以外の国々を視野に入れず、領事裁判の問題を検討することには懸念を表明せざるをえない。
 この論考ではポルトガルを一つの例として取り上げる。これまでの研究において特に注目されることのなかったポルトガルの領事裁判権を取り上げることには幾つかの理由がある。まず、ポルトガル植民地としてのマカオの存在がある。ポルトガルからマカオを経由して日本に到る商人は数こそ多くはないものの、それでも、横浜や神戸などの開港場で小さなコミュニティを形成する程にはなっていた。次に、このポルトガルが領事裁判を実施するにあたり、商人領事を起用したことが、明治政府との間で長く物議を醸すことになった。更には本国での財政難の結果、明治25年にポルトガル総領事が日本を去って帰国してしまったことが決定的となり、明治政府はポルトガルの領事裁判権を一方的に廃棄する旨を通告する。明治27年の条約改正前に起こった葡萄牙領事裁判廃棄は、当時において世論を騒がせ、明治政府もこれにより各国の出方を慎重に伺っていた。
 幸いなことに、国内においては、外務省外交資料館、国立公文書館、国会図書館憲政資料室等に豊富な史料が残され、また海外においても英・公文書館、米・国立公文書館、仏・外務省文書室に関連する史料が残されている。更に横浜・神戸などの開港場で発行された英字新聞やその他の日本語新聞にも多数の関連記事が見られる。本論考において、これらの史料を検討するとともに、葡萄牙領事裁判廃棄が明治27年の条約改正に与えた影響について考察し、もって領事裁判に関するこれまでの研究分析に再考を加えたい。


「フランス民法典における動産の売買契約と所有権の移転に関するいわゆる「合意主義」の法制史的位置づけ」
津野義堂(中央大学)

 フランス民法典の債務契約が所有権移転効果をもち処分権者からの引渡(トラーディティオ)などの動産の所有権譲渡(処分)を要件としない規律は法制史的には理性法論(中央ヨーロッパの近世自然法論)の直接の影響下に成立したものではない。法制史の知識が法制度の比較にとって重要であるということを実例によって示したい。それを、いわゆる引渡主義と合意主義を素材として行う。ヨーロッパ大陸の各国の現行法制度には、動産の所有権移転について少なとも4つの重要な類型がある。日本型はここには当然含まれていない。それらを区別することは、法社会学や法思想史にとってばかりでなく、法制史にとっても重要である。
 それらを区別する判別基準の一つは、引渡あるいはそれにかわるものを要件とするかということである(土地でも原始取得でもない、動産の法律行為による承継取得が問題である)。所有権譲渡を目指す債務契約だけで、すでに所有権が移転するとするか、あるいはそれに加えて物の引渡またはそれにかわるもの(処分)を要件とするか、ということである(それは売買や贈与に限られる。契約一般ではない。ましてや単なる合意ではありえない)。
 フランス民法典(1804年)の、債務契約だけで所有権移転の効果が生じ、引渡やそれにかわるものといった所有権を移転する処分行為を必要としないという制度(CC Art. 711, 938, 1138, 1583)は、従来近世ヨーロッパの自然法論(理性法論)の直接の影響であると、考えられてきた(Wieaker, Coing)。しかし実はこの常識的な理解が誤りであるということはすでに論拠を示して反証されている(Bucher)。
 私はこの報告でグロチウス(戦争と平和の法2巻12章15節1項および2項)やプーフェンドルフ(自然法を万民法5巻5章5節5項)の契約というものの考え方と所有権の移転論によってそのことを検証する。さらにローマ法源史料(Digesta6巻2章9法文4項など)の解釈をつうじて、古典期ローマ法において、非所有者から二重に売られて二重に引渡された物がウースーカピオによって所有権取得され、ウースーカピオ占有中に失われた占有がプーブリキアーナによって回復される法理のオントロジーを構築する。
 なお、この報告の一部はフランス共和国Clermont-Ferand市で開催された国際古代法史学会(SIHDA)の発表(ドイツ語)および比較法雑誌(2004)37巻4号(日本比較法研究所=中央大学)に提出済みの論文に関連する。


シンポジウム「コード・シヴィルの200年T〜外からのまなざし〜」


 20世紀が終わりを迎える頃から、いたるところで近代法システムの揺らぎが指摘されるようになった。こうした状況のなかで、法制史学会は、問題意識を共有するにとどまらず、これまで近代法を再定位するための積極的な提言を試みてきた。
 それを象徴するのが、1999年秋の第47回研究大会(於大阪大学)で開催された「近代法の再定位―比較法史学的試み―」である。このシンポジウムの成果は石井三記・寺田浩明・西川洋一・水林彪編『近代法の再定位』(創文社、2001年)として刊行されるとともに、2003年春の第55回総会(於早稲田大学)のミニ・シンポジウム「ジェンダーの法史学─近代法の再定位・再考」によって、さらなる議論の深化をみたのである。
 本シンポジウムの企画は、このような法制史学会の主体的取り組みのなかに位置する。換言すれば、本シンポジウムは、日本の近代に多大な影響を及ぼしたとはいえ、遠い外国の民法典が施行200年を経たといった曖昧な企図をもって進められるものではない。むしろ、本シンポジウムは、近代法システムの最も重要な起点となったコード・シヴィルに焦点をあてて、法制史学会がこれまで取り組んできた、近代法システムの揺らぎのなかで近代法を人類史的にいかに再定位すべきなのか、という難題に正面から取り組むべく、企画立案されたのである。
 本シンポジウムはまた、これまでの法制史学会の例にない、2年連続の野心的な企画である。このこともまた、重要な企画だから2年越しで行おうというだけの杜撰な企図によるものではない。むしろ、ポストモダンが謳われる時代状況において、近代法システムとも密接な関連を有する本質主義的なアプローチから、機能主義的アプローチへの転換をプログラム構成の段階から反映させようとした結果なのである。
 2004年春の第56回総会(於一橋大学)では、「コード・シヴィルの200年T〜外からのまなざし〜」を3本の招待講演を軸に組み立てる。日本・ドイツ・北米というコード・シヴィルの影響をさまざまな形でこうむった3つの地域の民法学専門家を招待し、それぞれが専門とする地域の民法典および民法学へのコード・シヴィルの影響について、「外からのまなざし」を通して語ってもらう。コード・シヴィルは、どのように外から見えており、現実にどのように機能しているのか。中途半端にバランスの取れた「まとめ」をあえて求めず、外在的でしかも実定法的な視点に徹底的にこだわることで、翌年度の議論のための確かな土台を模索せねばならない。
 2005年春の第57回総会(於桐蔭横浜大学)では、「コード・シヴィルの200年U〜内なるまなざし〜」を学会員の研究報告を軸に組み立てる。前年度のシンポジウムであえて封印した、日本の法制史学者によるコード・シヴィルの内在的な研究報告が、「内なるまなざし」を強く意識した形で、本格的に展開される。コード・シヴィルを生み出し、それが作り上げていった法文化的土壌とはどのようなものか。コード・シヴィルは、時空を超えて我々に何を問いかけているのか。内在的な視点をより深めるために、フランスから専門家を招聘し、パネルディスカッションも含めた活発な議論の舞台が用意されるはずである。
 しかし、どれほど「内なるまなざし」にこだわろうとも、議論に際して「外からのまなざし」を忘れてはならない。これは言うは易く行うは難しであるから、報告者のみならず会員諸賢が「外からのまなざし」を通じて得たものを十分に咀嚼するための時間が必要不可欠である。企画委員会がこのシンポジウムのために春秋連続という形を取らず、1年間というインターバルを設定したのは、そのためである。
 近代法システムの最も重要な出発点であるコード・シヴィルを、200年の時空を越えて、我々はどのように再定位するのか。それは現代の法制史学に課された重い課題であり、現代を生きる我々の使命である。本シンポジウムを通じて、法制史学会は、この困難な課題に怯むことなく正面から取り組み、法制史学の見地からしかなしえない積極的な提言にまで踏み込みたいと考える。会員諸賢の積極的な参加を期待する次第である。


「近代ドイツの議会制と選挙制度―プロイセンの三級選挙法をめぐって―」
的場かおり(大阪大学・院)

 議会Parlamentは多様な要素から形成されている。とりわけ、議会の権力的要素、つまり立法機関としての議会という要素に焦点を当て、議会の有する権限や自律性を考察することは、議会制研究において重要な役割を果たしてきた。この研究動向の背景には、近代において議会が徐々に権限や自律性を拡大することで、国制を支える原理が君主主義原理から議会主義原理へと移行するという図式が存在する。それに対し、本報告は、近代において何らかの形で国民によって選出される代表から議会が構成されるという要素に着目し、選挙制度という観点から議会のあり方を考察しようとするものである。つまり、議会の権力的要素以外の要素を考察の軸に設定することによって、議会制ならびに議会主義に対する従来の理解を再検討し、それらの実態を描写することが、本報告の目的である。ここでは、考察の対象を近代プロイセンのラント議会Landtag制とし、この議会制が三級選挙法Dreiklassenwahlrecht(1849年〜1918年)に規定される選挙制度といかなる関係にあったのかということを検討する。
 プロイセンの選挙制度をめぐる先行研究では、三級選挙法という名が示すように、第一次選挙人を三等級に区分する等級選挙制を採用した点に関心が集中している。しかし、三級選挙法が等級選挙制と並んで普通選挙制を採用したにもかかわらず、普通選挙制への論及はほとんどなされていない。1848年三月革命の結果、立憲君主制国家となったプロイセンでは、君主である国王を頂点に据え、その下で立法機関、行政機関そして司法機関は予定調和的な関係に立ち、中でも行政機関が他の二つの機関の上位に置かれることを前提とした国制が構築される。しかし同時に三月革命は、立法機関の正統性が国王一人にではなく、国民の意思によって担保されなければならないという時代を到来させる。そしてこのような国制に適合するべく整備されるラント議会制は三級選挙法によって規定されるがゆえに、この選挙制度には、国民の国政参加と代表の選出を通して、プロイセン国制を磐石なものとするよう機能することが期待された。
 この期待を担う三級選挙法がなぜ等級選挙制と並んで普通選挙制を採ったのか、そしてこの普通選挙制が議会制との関係でいかなる意味を有するのかということが問題となる。普通選挙は、確かに参政権の拡大という観点からすれば、政治の民主化を示すバロメーターとして作用すると言えよう。しかし、1849年の選挙法において採用された普通選挙を考察することで、普通選挙が別様に作用し、行政機関が望むようなプロイセンの議会制ひいては国制の整備に貢献したことを検証したい。


「田能村梅士の中国法制史論」
中島三知子(尚美学園大学講師)

 明治30年代ごろから、我が国の法制史学は、比較法制史的視野の下に、大きな変化を遂げた。中国法制史の分野では、広池千九郎『東洋法制史序論』、浅井虎夫『支那法制史』などが著名な業績として挙げられよう。しかし、ほぼ同じ時期に、『世界最古の刑法』という書によって、彼らとは異なる方法と問題意識を持って中国法制史を論じた、田能村梅士という人物については、あまり知られていない。そこで、本報告では、この田能村の著した『世界最古の刑法』を検討する。そして、西洋法一辺倒であった明治中期から後期にかけての我が国において、田能村がなぜ中国法制史が研究対象としたのか、そしてその研究内容はいかなるものであったのかについて、時代背景などを考慮しつつ吟味することにしたい。
 田能村による中国法制史研究は、残念なことに、時として精到した研究とは言い難く、学問的評価が難しい。しかし彼の「歴史」認識の方法には、西欧刑法的視点や概念を取り込んだ近代主義的解釈の下に、中国法制史が語り出されるという大きな特徴がある。本報告では、当時としてユニークな論策であった彼の『世界最古の刑法』の再読を通して、近代期日本が中国法制史に向けた「まなざし」の学問的意義とその今日的評価を試みたい。


「犯罪人類学と人種−ロンブローゾにおける日中認識」
清水裕樹(聖路加看護大学講師)

 犯罪者が隔世遺伝的な存在であるという仮説は、ロンブローゾの犯罪人類学の核心として、一貫して唱え続けられた。この仮説によると、犯罪者は現代文明社会に生きる野蛮な人間であるとされるが、ここで現代文明人とは白人のことであり、犯罪者はより野蛮な有色人種と身体的・精神的特徴を共有しているものとして考えられていた。こうした考え方への裏づけとして、有色人種である日本人や中国人は、嬰児殺の横行するような社会に生きる、白人の文化的水準よりも低い段階にある存在として描き出されていた。
 ところが、1890年代後半以降、ロンブローゾの日本人・中国人に対する認識は大きく変化する。彼は自らのもとに訪れる日本人研究者たちを、後輩として、また時には同僚として歓迎した。他方で中国人については、ヨーロッパとは異質な、平和と安定を基礎とする独自の文明を高度に発達させており、水準においてはヨーロッパを凌駕しうる文明段階にあると論じた。
 本報告では、ロンブローゾの日中認識におけるこうした変化を、1893年の社会党参加以後に認められた政治的な問題に対する関心の高まり、とりわけ植民地拡張政策に批判的な論者として、彼がアジア・アフリカ諸国に対して示した認識を鍵として明らかにすることを目指す。


「鎌倉時代における検断権の所在と展開」
西田友広(東京大学史料編纂所助手)

 現在、検断を材料として中世の国制について研究を進めているのが新田一郎氏である。新田氏は中世には、諸権門によって分掌された日常的行政機能の一環としての検断と、それを補完する所領横断的な検断とが存在したとし、後者を担ったのが鎌倉幕府(特に守護)であったとする。そして、鎌倉後期の悪党問題の中で幕府検断の質的展開がもたらされ、これが中世後期以降の国家高権生成の契機となったとの見通しを示し、これを鎌倉後期の「検断沙汰」の成立の分析を通じて論じた。
 この研究の背景には、幕府を国家的検断を担う権門として、中世の国家権力を分掌する存在と位置づけた権門体制論が存在する。しかし、幕府は成立当初から国家的検断権を担いうる存在だったわけではく、また国家的検断権を独占的に掌握してもいなかった。鎌倉前期においては朝廷・幕府・諸本所・在地などさまざまなレベルでの検断権行使主体が存在していたのである。それらの相互関係とその展開について明らかにするなかで、中世後期の国家高権形成へと繋がってゆくような国家的検断権が、鎌倉時代を通じていかにして幕府の下へ編成されたいったのか、という課題に迫ってみたい。


「近代自由刑の成立とその目的としての身体」
藤本幸二(一橋大学国際共同研究センター研究員)

 2002年10月、名古屋刑務所における受刑者男性二人の死傷事件判明をきっかけとして、我が国では自由刑受刑者の刑務所内における処遇に対する関心が高まり、拘束具としての革手錠の使用や看守による日常的な暴行といった行為が、名古屋だけではなく各地の刑務所に蔓延していたことが明らかになった。こういった状況が生じる背景には、懲役刑あるいは禁固刑という行刑様式が実行されるにあたって、ある程度の身体的拘束や苦痛の介在を受刑者の悪性を理由として正当化するという、自由刑観に関する共通認識が存在するように思われる。
 翻って、西ヨーロッパにおいて近代自由刑が成立を見た18世紀後半という時代にあっては、それが中世以来の身体刑を中心とした刑罰体系に対するアンチテーゼとしての役割を担わされていたという事情も手伝い、現代におけるものとは異なる認識や理解、あるいは期待がなされていたことは明らかである。本報告においては、こうした近代自由刑の揺籃期にあって、そこに影響を及ぼした社会的・経済的・思想的状況および当時の自由刑に関する理論的基盤に関する最新の研究動向を踏まえつつ、日本あるいは中国といった東洋社会における自由刑の発展との比較の中で、特に自由刑と身体との関係について明らかにしていきたい。