第55回総会・報告要旨




情真と矜疑−清朝初期の朝審における事案分類カテゴリー−
赤城美恵子(東北大学)

 清朝において、律例は犯罪ごとに相当する刑罰を定めていたが、死刑に関して言えば、刑罰の種類として絞・斬・凌遅処死などを、また執行の時期として「立決(立ちどころに決す)」及び「監候(監して候つ)」を規定していた。死罪案件を審理する官僚は律例上の規定を援用して相当刑を定め、皇帝に上申した。皇帝は、若干の例外として立決を監候に改めることもあったが、おおむね律例に即した定罪を承認した。立決の場合にはただちに死刑執行手続きに移る。それに対して監候の場合には、(順治10年以降は)処決は秋後に行われ、その上、処刑の前には死刑執行の当否を判断するための再審理の手続きがとられ、監候死罪囚の一部はなお死刑執行されたが、減刑執行される者もあった(順治10年以前においては、処決を秋後まで引き延ばすことはなかったが、死刑執行か否かの再審理は行われていた)。
 監候死罪囚に対する再審理の場を「朝審」ないし「秋審」と呼ぶが(清朝初期にはほとんど区別はなかったが、徐々に「朝審」は刑部の監獄に繋がれている死罪囚に対する審理を、「秋審」は地方各省の監獄に繋がれている死罪囚に対する審理を指すようになった)、それに関与する官僚の中核をなすのは原審を担当した同じ衙門の官僚であり、さらにここでの結果もまた皇帝の承認を経ることになる。では、ある犯罪者を死刑相当とする通常の裁判過程における判断と、一部の死罪囚について死を免じ減刑執行してしまうような朝審・秋審での判断とは如何なる関係にあるのか。
 朝審・秋審での事案の分類枠は清初には「情真・矜疑」という二分類であったが、康煕年間に「情実・緩決・可矜」という三分類へと変化し、その分類が清末まで保持された。この分類カテゴリーの変化の過程を追う作業は、その時々における朝審それ自体の機能の解明に資するものであると、報告者は考えている。そこで今回の報告では、特に清朝において朝審が再開された順治10年頃の档案史料中に現れる個別の事案に即して、情真・矜疑の分類が如何なる意味を有していたのか、また可疑が消滅し緩決が定着したのは何故かについて分析し、それを通じて朝審判断が当時の裁判制度全体の中で如何なる役割を果たしていたのかを考察したい。


清代の法におけるジェンダー構造
マシュー・H・ソマー(スタンフォード大学)

 本報告では、清朝(1644-1912年)を例に、法史学にジェンダーを取り入れることの意義について論じる。そのさい、清代の法にあらわれた中国のジェンダー・システムの特徴をいくつか検討し、近世ヨーロッパとの相違に焦点をあてて論じたい。
 18世紀は、清代法の劇的な革新期であった。セックス=ジェンダー関係を新たに規制しようとする試みもまたその一つである。古い身分制的カテゴリーは法から消え失せた。同時に、「良民」のあいだに広がっていた家族にもとづくジェンダー役割規範(夫/父、妻/母)が、古い身分制の境界を打ち破り、ほとんど万人に対していっそう厳格に適用されるようになったのである。
 こうした傾向をもっともよく反映するのが、「鶏姦」法とよばれる一連の新しい法である。性的脅威が男性性[男らしさ]masculinityを損ないがちであるとの新しい認識は、女性の貞操の保護や称揚にこだわる周知の公的固定観念に相応していた。「鶏姦」法を起草した法律家たちの想定によれば、性交渉は、ジェンダー化された役割ヒエラルキー内での支配行為(男性/挿入する者、女性/挿入される者)であって、当事者の生物学的性[セックス]とは無関係である。つまり、挿入された男性は男性性をまったく喪失するという憂き目にあうけれども(女性が貞操を汚された場合に準じる)、挿入した者にそのような烙印が押されることはないと考えられたのである。
 厳格なジェンダー規範を課す主な目的は、新たな脅威に備えて農民家族を強化することにあった。家族システムの外にはじきだされた下層男性のならず者−これが、18世紀の多くの法に登場するかの悪名高き「光棍」である−が増えつつあり、新たな脅威とうつったのである。新しい立法では、ならず者たちは「良家婦女」や年若い「良人子弟」をおびやかして、自己の性的欲望を満たそうとする悪漢とみなされた。こうした言説は、男女比の不均衡(女児殺しに起因する)や貧民間での妻不足の深刻化といった現実の社会動向を反映したものといえる。
 清代の法では男性性は[挿入者として]害をなすと同時に[挿入される者として]性的被害にあうものと解されたが、それは、近世ヨーロッパの当時の動向と著しい対照をなす。当時のヨーロッパでは、「性的指向」sexual orientation[(訳注)性的欲望がいずれのジェンダーを対象としているかを意味する概念]という新しい考え方が生成しつつあったからである。この二分法(同性愛対異性愛)によれば、個人は、どの性を性的欲望の対象とするかにしたがって定義される。すなわち、同性愛者が同性愛者たるのは、同性に性的欲望を向けるからであって、性行為のさいに演じる役割とは関係がない。性的指向は、社会関係がヒエラルキー理念と決別し、平等主義モデルに向けて動き始めるという歴史的脈絡で生じた。この変化は、法的言説その他にも反映されている(たとえば、女性解放の意識がほぼ同時に形成されはじめている)。これに対して、清代の法には、挿入する者と挿入される者をともに含み、もっぱら、同性に向かう性的欲望にのみもとづくカテゴリーとしての「同性愛」は存在しない。「同性愛」というカテゴリーは、清代の法的、社会的想像力にとってはまったく無縁なものであったと思われる。清代の法や社会にとって、セクシュアリティは、家族にもとづく一定のヒエラルキー的なジェンダー役割にしたがって構築されていたのである。[訳:三成美保/原文は学会HP企画委員会「ジェンダーの法史学」に掲載]


法制史学会企画委員会企画:ミニ・シンポジウム
「ジェンダーの法史学−近代法の再定位・再考」

三成 美保(摂南大学)

 1999年、「男女共同参画社会基本法」が公布・施行された。公式に'Gender Equality'(ジェンダー*平等・男女平等)と英訳される「男女共同参画」社会の実現を「21世紀の我が国社会を決定する最重要課題」(前文)と位置づけたわが国で17番めの基本法である。そこでは、「社会における制度又は慣行が、性別による固定的な役割分担等を反映して、男女の社会における活動の選択に対して中立的でない影響を及ぼすことにより、男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあること」(4条)を前提としつつ、それらの制度や慣行が及ぼす影響を調査研究する必要性がうたわれている(18条)。
 国際社会と比較して、わが国におけるジェンダー平等の達成度はけっして芳しくない。1995年以来、国連開発計画により発表されている「人間開発白書」によると、わが国は2001年統計で、HDI(人間開発指数)およびGDI(ジェンダー開発指数)ではそれぞれ世界162ヶ国中9位、同146ヶ国中11位に位置するが、GEM(ジェンダー・エンパワーメント指数)の順位は低く、測定可能な64ヶ国中31位とふるわない。3つの指数は、日本国民が男女とも平均寿命・教育水準・国民所得等で大差がなく、世界最高水準に達しているものの、政治・経済生活における意思決定への女性の関与はいちじるしく劣るということを示している。これは、わが国におけるジェンダー秩序(性別役割分担に根ざした社会秩序)の伝統を色濃く反映したものと考えることができよう。しかしながら、このようなジェンダー秩序がわが国の法制度にどのような影響を与え、また、いまもなお現行法制度をいかに規定しつづけているかについて、法史学の立場から包括的な研究はほとんどなされていない。
 本シンポジウム「ジェンダーの法史学」は、わが国の法文化とジェンダー秩序との相互関係を歴史的に検討しようとするものである。とりわけ、日本近代法の形成に焦点をあてたい。1999年10月の法制史学会創立50周年記念シンポジウムにおいて「近代法の再定位」が論じられ、多くの成果を得ることができた。そのさい充分に検討されることがなかった近代法とジェンダー秩序との関係を明らかにすることが、本シンポジウムの目的である。もちろん、ジェンダーを法史学的に論じようとする場合には多様な視角がありうる。ここでは、実定法学・歴史学・法史学の共同作業として、わが国のジェンダー法史学が取り組むべき基本的論点をいくつか抽出し、仮説を示して、今後の本格的議論の枠組みを提示することをめざす。その意味で、本シンポジウムはすぐれて実験的な序論的考察にとどまることをあらかじめお断りしておきたい。
 シンポジウムでは、趣旨説明のあと4報告がおこなわれる。まず、実定法の観点から、吉田報告は、現行民法に埋め込まれたジェンダー秩序について論点を整理し、市民社会の変容と近代法形成、そしてジェンダー秩序との関連性について仮説を提起する。第2の村上報告は、吉田報告で示された仮説を法史学的に検証する。家族は、西洋近代ジェンダー秩序のもとでは「私的領域」に押し込められてしまい、それとともに近代家族法にも強固なジェンダー・バイアスが埋め込まれた。このようなバイアスをともなう西洋法を継受して形成された近代日本家族法は、西洋近代家族法と共通するジェンダー秩序と、「家」制度に表現されるわが国独自のジェンダー秩序という二重のジェンダー秩序に対応せざるをえなかった。村上報告は、「家」の「戸主権」と対抗する「家族」の「親権」をとりあげ、当時の立法論議のなかで二重のジェンダー・バイアスが法的にいかに処理されようとしたかを論じる。
 村上報告により近代日本において確認された二重のジェンダー秩序のあり方を歴史的に検証するのが、第3の曽根報告である。曽根報告は、近世において主人=奉公人の関係をも含む広義の「家」を規律化するもっとも有効な手段となっていた刑事法制に着目する。そこでは、ジェンダーの観点から見た刑事法制の機能について新たな論点が示されるとともに、近代の「家」制度に継承・集約されていくような前近代日本のジェンダー秩序の構造が示唆される。最後に、松本報告は、村上報告が対象としたのとほぼ同時期のドイツを取り上げ、比較法史の観点から、日本近代法の特徴を逆照射しようとする。明治民法が成立した19世紀末は、国家が「私的領域」への介入を著しく強めはじめる社会法形成期に重なる。労働法生成期のジェンダー・バイアスを明らかにすることにより、西洋社会における公私二元論**のあり方の特徴とそれが法制度に与えた影響について論じる予定である。
 以上4報告について、法史学の3分野(日本・東洋・西洋)からコメントをもらい、全体的議論の手がかりとしたい。その後の討論においては、時間の制約があるため、あえて個別問題を扱わず、原則として、報告・コメント等において提起された論点に即して議論を集約していきたいと考えている。会員のご理解とご協力をお願いしたい。なお、本シンポジウムでは仮説提起に重きをおき、パワーポイントを用いて論点をわかりやすく示す予定である。論拠となる史料等については当日配布する冊子体のレジュメに記し、理解の一助となるように配慮する。また、今回のシンポジウムのより詳しい概要については、法制史学会ホームページの記事***をご参照願いたい。

(注)
 * ジェンダー:社会的・文化的に形成された性差・性別役割分担をさす。生物学的な性別であるセックスSexと区別して用いられる。
 ** 公私二元論:政治・経済生活に関わる領域を「公的領域」、家族など私事に関わる領域を「私的領域」として、前者を男性、後者を女性が担うとする考え方。
 *** 法制史学会ホームページ「ジェンダーの法史学」


ローマの「公法」について
−パウルス『意見集』第1巻第1章第6法文を手がかりとして−

沼宮内 綱(早稲田大学)

「公法」「私法」の区分は現行法では当然のこととされ、その区分の基準の代表的なものとして「利益説」「権力説」が挙げられている。そして、この区分の淵源がローマ法にさかのぼるとも言われている。これは、多分、ius publicumとius privatumのことと考えられる。本報告は、ローマ人が何をius publicumと理解していたかを検討の対象とする。他の法制度と同様に、ローマ人自身はius publicumについて一般的な定義をしていない。あえて挙げるならば、『学説彙纂』第1巻第1章第1法文の2に収録されているウルピアーヌス『法学提要』の説明だろう。そこでは、ius publicumは「国家にかかわるもの」「公に利益のあること」とされ、具体的には「祭祀、祭司職、公職」とされる。20世紀を代表するローマ法学者であるマックス・カーザーは、この法文からius publicumとutilitas publica(公の利益)との結合関係を導き出し、そこから、各法制度の位置づけを試みている。この主張によれば、婚姻は、子孫を残すことにより、単に「家」の存続をはかるためのものであるだけでなく、国家構成員を増員するためのものであるからius publicumであり、そのような婚姻を経済的に支える嫁資の制度もまたius publicumであるということになる。果たしてこれは妥当な主張だろうか。第一に、ウルピアーヌスの説明は「法の研究」にかんする区分である。第二に、婚姻はウルピアーヌスが例示する「祭祀、祭司職、公職」のいずれにも該当しない。そこで、本報告では「嫁資の機能」をius publicumとするパウルス『意見集』第1巻第1章第6法文を取り上げ、ius publicumが実際に、どのような意味で用いられているかを検討することにより、ウルピアーヌスの説明が一般化できるかどうかを考察していきたい。


日本弁護士史の再検討−「非弁護士」概念を手がかりとして
橋本誠一(静岡大学)

 かつて瀧川政次郎氏は、歴史分析の対象とすべき「弁護士」概念について次のように述べられた。「弁護士という語を厳格に解するならば、日本の弁護士の歴史は、明治二十六年の弁護士法の制定に始まる。しかし、弁護士なる語を広義に解して、訴訟の補助者及び法律の助言者の意に解すれば、その歴史は訴訟というものが行われた大宝・養老の律令時代にまで遡る。(略)歴史上に於ける弁護士なる語はまさにかかる時代的発展による変化を包含した歴史的範疇に於ける弁護士でなければならない」(同『公事師・公事宿の研究』赤坂書店、1984年、59頁) 。
 本報告は、瀧川氏の概念規定を継承しつつ、これを近代日本弁護士史研究により本格的に適用しようとするものである。より具体的に言えば、「非弁護士」(彼らは俗に「三百代言」「三百屋」「事件屋」「訴訟紹介人」などと呼ばれた)の存在に着目し、それを弁護士史全体の中に位置付け、歴史的評価を与えようとするものである。
 主要な論点は以下の三つである。第一は、近世公事師・公事宿と「非弁護士」との歴史的系譜関係。近世公事師・公事宿は明治維新以後どのように変容したのか? そして、近代社会に広範囲に存在した「非弁護士」とどのような歴史的系譜関係を有していたのか?
 第二に、「非弁護士」の活動実態あるいは社会的機能。この点についてはこれまでほとんど解明されてこなかった。しかし、それはきわめて多様な社会的存在であると同時に、当時の弁護士制度と密接な相互規定関係を有するものであった。
 第三に、弁護士法制と「非弁護士」問題の相互規定関係。そもそも「非弁護士」発生の主要な規定要因は、当時の弁護士法制にあった。他方、「非弁護士」の自生的発展は、逆に弁護士法制の在り方に大きな影響を与えた。こうした視点から、弁護士法制に関して新たな論点を提示したい。


【ミニ・シンポジウム】
「岡松参太郎の学問と政策提言」

浅古 弘(早稲田大学)

 岡松参太郎の代表的著作である『無過失損害賠償責任論』が、「有斐閣の二十世紀の名著五〇選」の一冊に選ばれ、浦川道太郎による同書の紹介文が「書斎の窓」に掲載されている。この大著の豊富にして周到な文献の引用をみれば、参太郎が旺盛な読書力と卓越した文献蒐集・整理の才能の持ち主であったことがわかる。その才は、京都帝国大学附属図書館の創設に発揮され、また自身を一大蔵書家たらしめた。この参太郎とその父甕谷二代畢生の研究に係わる旧蔵図書と文書資料が、参太郎の令孫岡松浩太郎氏らご遺族4人から、1999年春、早稲田大学図書館に寄贈された。これら図書(約7,000冊)と文書資料(書架延長約15m)は、文京区目白台の自宅書庫に約70年間、研究者の目に触れることなく保管されてきたものである。2000年度から3年計画で、日本学術振興会科学研究費補助金と早稲田大学特定課題研究費の財政的援助を受けて、早稲田大学東アジア法研究所が中心となり、整理と仮目録の作成を行ってきたが、ようやくマイクロ化の事業に着手できるところまでになった。これを機に、その概要を紹介しておこうと考えた。
 寄贈された図書・文書資料とも、参太郎関係のものが圧倒的に多い。文書資料約8340件のうち、甕谷関係の182件を除いた残り全てが参太郎に関係するものである。残念ながら参太郎の日記・手帳の類は含まれていなかったが、書簡、著作原稿、ノートはもとより、裁判所に提出した鑑定書の写し、法案の起草原稿、政策立案の下書きや臨時台湾旧慣調査会関係の公文書の類からオートバイなどの商品カタログ、請求書や領収書まで、実に様々なものが残っている。早稲田大学図書館には、市島謙吉が参太郎とほぼ同時期に精力的に洋書を選書購入した市島コレクションがあるが、それでも重複調査の結果、和書・洋書を含めて3000タイトル近い未所蔵本が寄贈された図書の中に含まれていることが分かった。これらの図書や文書資料は、法制史や法律学の研究に限らず、当時の法科大学教授の生活を彷彿とさせる資料も多く、政治史、経済史、社会史・教育史・技術史などの研究資料としても活用できるのではないだろうか。

研究者としての岡松参太郎
岡松暁子(国立環境研究所)

 本報告では、岡松参太郎の経歴と業績を、研究者としての岡松に焦点を当てて紹介する。第一に帝大及び帝大大学院時代とドイツ留学時代までを振り返る。京都帝国大学法科大学創立に際して、学問の独立を信条として貫き、ドイツの学風を導入した岡松の役割やその後への影響を、教育者としての岡松も念頭におきながら考察する。第二に京都帝大教授時代の学問業績を概観し、学者として、後藤新平の政策ブレーンとして台湾総督府や南満洲鉄道株式会社といった国家政策に携わるようになった経緯や動機を想見する。

岡松参太郎と民法教育−試験問題を通して窺われる民法教育−
浦川 道太郎(早稲田大学)

 岡松文書の中には、岡松参太郎が教壇に立った京都帝国大学および京都法政学校(現・立命館大学)で出題した民法に関する試験問題が多く残されている。本報告では、これらの試験問題の分析を通して、当時の民法科目の試験の形式、内容を明らかにし、大学で講じられていた民法学がどのようなものであったかを解明したい。京都帝国大学法科大学を開設するに当たって、岡松らは新たな教育理念で臨んだが、それがどのように実現されたかを検証することが課題である。

岡松参太郎と台湾−臨時台湾旧慣調査会との関係から−
岡本真希子(早稲田大学)

 1901(明治34)年に発足した臨時台湾旧慣調査会は、その後の日本の植民地における慣習調査の原型を作ったといわれ、1919(大正8)年の解体まで台湾の旧慣調査に関する数々の刊行物を発行し、また、立案作業を行った。岡松参太郎はその発足当時から私法領域の専門家として一貫して中心的役割を果たした人物である。近年の研究においては、岡松参太郎の生涯や同調査会の全般的な輪郭はすでに明らかにされつつあるが、その一方、同調査会の進行過程や運営の実態については未解明の部分が多い。旧慣調査会の成果に至る過程では、岡松をはじめ京都帝国大学の知識人たちが動員されるとともに、台湾で実地調査を行う多数の嘱託員などがおり、膨大な人員・日数が費やされた。そうしたなかで、岡松の役割はいかなるものであったのか。本報告では、「岡松家旧蔵文書資料」用いながら、旧慣調査会の実態に迫るとともに、岡松参太郎と旧慣調査会の関係について考察したい

満鉄の創立と岡松参太郎
小林英夫(早稲田大学)

 本報告では、満鉄の創設および同社の調査部の創設に岡松参太郎が具体的にどのようにかかわったのか、を彼の書簡および草稿を手がかりに分析する。岡松が後藤新平のブレーンとして満鉄の創設、とりわけ調査部の設立に深く関与したことはこれまでもしばしば指摘されるところであるが、その具体的かかわりあいに関しては資料不足もあって十分に解明されてこなかった。今回は、岡松文書を手がかりにその内実を明らかにしたい。また、台湾時代の岡松の調査活動の経験が、満鉄の創設、とりわけ調査部の創設にいかなる影響を与えたのか、を明らかにしたい。この点に関してもさまざまな見解があるが、台湾旧慣調査資料を検討することを通じて、その関連性、台湾から満鉄創設への発想の展開を跡づけてみることとしたい。

 ※「法制史学会第55回総会記念 岡松家旧蔵文書資料展」についてはこちらを参照。