法制史学会第53回研究大会のご案内


冠省 法制史学会 第53回研究大会を下記の要領で開催いたします。
奮ってご参加くださいますよう、ご案内申し上げます。
ご参加のかたは、同封の郵便振替用紙(口座記号番号 01780-2-131570)によって、9月22日(木)までにお申し込みくださいますよう、お願い申し上げます。


 1.研究報告
 ◇第1日目:2005年10月15日(土曜日)受付:午前9時30分より。開始:午前10時
 ◇第2日目:2005年10月16日(日曜日)受付:午前9時より。開始:午前9時30分
 会 場:熊本市黒髪2丁目40−1 熊本大学黒髪北キャンパス(交通案内)
      大学教育センター棟3階C301教室
 参加費:1000円

 2.懇親会
 日 時:2005年10月15日(土曜日) 午後6時30分開始予定
 会 場:KKRホテル熊本(860-0001熊本市千葉城町3-31。Tel.096-355-0121)3階・城彩の間
 参加費:5,000円 (懇親会場へは、貸切バスおよびタクシーでお送りしたします。)

 3.見学会
 日 時:2005年10月17日(月曜日)  集合時刻・場所:午前8時 熊本市民会館前
 解散時刻・場所:午後6時熊本空港)・6時30分(熊本交通センター)・6時40分(熊本駅)
 見学行程 天草・古キリシタン関係史跡の見学(天草五橋―南蛮寺・上津浦城跡―崎津・大江の集落): 詳細についてはこちらをご参照ください。
 参加費:5,000円

 4.昼 食
 土曜日については構内、学生会館の食堂が営業いたしており、また構外の近隣にも食堂はあります。ただ、研究報告のスケジュールがかなり詰まっていることからみて、両日とも、準備委員会で用意いたします弁当(1000円)をご利用くださるのが便利かと存じます。

 4.宿 泊
 ご参考までに、熊本市内のホテル一覧を同封いたしております。ちょうど同じころ、別の学会が熊本市で開催されると聞いております。なるべく早い時期にご予約なされますようお勧めいたします。なお、山一観光のほうで予約している分もございますので、同封の案内文をご覧のうえ、ご利用ください。

  2005年7月1日

法制史学会第53回研究大会準備委員会

860-8555 熊本市黒髪2丁目40-1 熊本大学
若曽根 健治 Tel.096-342-2361 wakaso@gpo.kumamoto-u.ac.jp
山中   至 Tel.096-342-2388 i-yama@gpo.kumamoto-u.ac.jp
上田 理恵子 Tel.096-342-2550  ueda@educ.kumamoto-u.ac.jp



研究大会日程


 第一日(10月15日:土曜日)

10:00〜11:00合意の法的効力――諾成契約債務と問答契約債務との関係を手がかりとして五十君 麻里子(いぎみ まりこ・九州大学)
11:00〜12:00西洋中世における訴権の意義とその創造性水野 浩二(みずの こうじ・北海道大学)
12:00〜13:15昼食・休憩
13:15〜14:15記念講演 法制史と経済史,そして歴史学森本 芳樹(もりもと よしき・九州大学名誉教授)
14:15〜15:20特別報告 中世後期民事手続の類型論について:伝統と学識法カーリン・ネールゼン=フォン・シュトリューク(フライブルク大学)
15:20〜15:50休 憩
15:50〜16:50法律専門職とジェンダー──比較法史学的一考察──黒田 忠史(くろだ ただぶみ・甲南大学)
16:50〜17:50民俗学として語られたドイツ法史学一死者儀礼をめぐる20世紀初頭の議論に注目をして一井上 琢也(いのうえ たくや・國學院大學)
18:30〜20:30懇親会


 第二日(10月16日:日曜日)

09:30〜10:30清代地方官の公共事業財源確保策喜多 三佳(きた みか・四国大学)
10:30〜11:30土地を巡る「舊慣」と『臺灣私法』――「不動産權」をめぐるテキスト分析を素材として――西 英昭(にし ひであき・京都大学)
11:30〜12:30中世日本における謀反人跡地頭職と検断田中 茂樹(たなか しげき・大阪大学名誉教授)
12:30〜13:00昼 食
13:00〜14:00本近世刑事裁判の問題――春原博士旧蔵関西大学図書館所蔵 尾張藩名古屋町奉行所関係文書から――蘆田 東一(あしだ とういち)
14:00〜15:00「公事方御定書」下巻に関する疑義――伝本とその呼称について――高塩 博(たかしお ひろし・ 國學院大學)
15:00〜15:20休 憩
15:20〜16:20「官報」の創刊経緯について――明治期における法令伝達研究の見地から――岡田 昭夫(おかだ あきお・早稲田大学)
16:20〜17:20梅謙次郎におけるローマ法とフランス法の位相――『和解論』をめぐって――辻村 亮彦(つじむら あきひこ・東京大学)



【報告要旨】

合意の法的効力――諾成契約債務と問答契約債務との関係を手がかりとして
五十君 麻里子(九州大学)


 「我々が法学部ではじめに学ぶことの一つに、「売買は合意のみで成立する」ということがある。売買のみならず、現行民法の世界では、合意があれば、わずかの例外を除いて常に契約が成立する。合意こそが、契約の核心であると考えられているのである。
この合意によって成立する売買契約は、ローマ法において成立し、展開したものであるとされる。ローマにおいては、売買、賃約、委任、組合の四契約が諾成契約として認められ、これらに限っては、合意のみで法的効力を発生する。紀元前2世紀という早い時代に諾成契約が認められたのは、比較法史上極めて特異なこととされ、諾成契約の成立をもって、種々の契約類型発展の到達点を見たとされるのである。
 しかしながらそのローマで、諾成契約によって成立した債務を問答契約債務に更改する、あるいは諾成契約債務に問答契約債務を付加することを示す法史料が散見される。例えばパウルス告示注解第33巻・学説彙纂18巻5章3法文は、反対合意の問題を扱いながら、目的物債務について保証人を設定した場合にならび、代金債務について問答契約を為した場合の反対合意の有効性を論じ、さらに進んで目的物債務について問答契約債務を設定した場合も同様であるとしている。問答契約は、ローマでは非常に重要で、「汝は与えるか」「与える」といったような問答を行うことによって、諾約者に要約者に対する債務を片務的に負わせる、言語契約の一種であるが、一度合意によって成立したはずの債務について、さらに問答契約を為す理由は何だったのだろうか。その内容については、諾成契約債務の担保、目的物債務ならば瑕疵担保、あるいは諾成契約債務の問答契約債務への更改など、様々なものが考えられる。
 本報告では、『学説彙纂』のいくつかの法文とウァッローの『農書』を手がかりに、諾成契約債務と問答契約債務の関係について、論じて行きたい。


西洋中世における訴権の意義とその創造性
水野 浩二(北海道大学)

 西洋中世の学識法的訴訟法学では、訴訟の開始にあたり原告が行う訴権提起(editio actionis)のあり方についてかなりの議論が行われた。先行研究はそれらの議論を「訴権中心の思考」から「主観的権利中心の思考」への移行如何という思考枠組で捉えようとしてきたため、当時の議論が訴権提起をどのような具体的モティーフに基づきどのような形で扱っていたのかは等閑視されてきた。報告では「訴権vs.権利」という思考枠組から離れて議論の具体相(内容だけではなく議論のスタイルも含めて)を、当時多数出現した「訴権を軸とする文献」を史料として検討することで、当時の人々が訴権(提起)を扱うに当たりなにが問題だと考えていたのかを明らかにし、そこからさらに現代にも通じる普遍的な問題を提起してみたい。
 前提として「訴権とカウサ(causa)は同一か否か」の議論、そしてそれを通じて14世紀以降「訴権とは、カウサ(事実)から請求を導き出すための論拠である」という見解が通説になっていったことに軽く触れた後(詳細は『法学協会雑誌』122巻5号、8号(平17)の拙稿を参照)、具体的な訴権=dominiumに基づいて物の返還を請求する訴権(rei vendicatioとactio Publiciana)についての叙述を検討する。14世紀以降「訴えの対象の特定」は緩やかになり、訴権かカウサ(事実)の何れかがドミナントというの ではなく双方を複数の具体的モティーフの判断に基づき極めて洗練された形で取捨選択・組合わせて 「特定」できる。「特定」には原告だけでなく被告、さらには裁判官が広範に関与できるようになっていった。この背景としての訴権概念の意義、訴訟における諸アクターのあり方についての考え方を抽出した上で、最後に、「訴権中心の思考」対「主観的権利中心の思考」というダイコトミーが法的思考にとって持つ意味を、先行研究とは異なる形で、むしろ訴権=類型に基づく思考の持つ創造性を見出す方向で提示してみたい。


記念講演  法制史と経済史,そして歴史学
森本 芳樹(九州大学名誉教授)

 ヨーロッパ中世初期社会経済史に志してから今まで,法制史学会から恩恵を受けつつ勉強させて頂くと同時に,自分が専門とする経済史と法制史との相違を感じることも多かった。与えられた機会に,回顧的な考察で歴史学の真髄に迫る一助としたい。
 私の仕事で特に法制史を意識したのは共同研究「西欧中世における都市・農村関係」で,都市を農村から峻別する伝統的視角への批判として都市法の決定的重視を忌避する方向を取って,法制史批判を含むことになった。『法制史研究』に手厳しい評価が掲載され,私も強い反論を寄稿するところまで進んだ。
 もう一つは私個人が取り組んだカロリング期所領明細帳の研究である。これを小規模で改変されうる実務記録と捉えて動態的研究を志した私が対峙したのは,この史料の法的性格に固執して大がかりな静態的研究に使う伝統であった。進んで,文書を書式にのっとった「法行為」の記録として,裁判での証拠書類たりうるその法的能力に固執する古文書学的・法制史的史料学に,記録を変化する諸相のあらゆる局面において捉える史料論を対置する方向を構想した。
 史料に基づいてきめ細かい認識に進もうとした私が,既存体系からの自由を求めて法制史批判となったのだが,次の共同研究であった市場史では,対決の相手は私の専門分野の基礎である経済学となった。人間交通の要としての市場を世界史の諸局面に見出していく一環として西欧中世の市場を研究する構想への阻害要因となったのは,「資本主義の範疇としての市場」という自身に刷り込まれた経済学の公準なのであった。
 法学も経済学も問題を一般化して捉えることを使命とするのに対して,歴史学では個性志向というもう一面があり,具体的肉付けによって個別事象のなるたけ豊富な認識に至ろうとする営為も尊重される。初めは法制史批判だと意識し,後に経済史批判でもあると分かったのは,実は一般性志向の歴史学から個性志向のそれへと移ってきた私自身が,そうした勉強の流れのうちで強く意識した自由の欲求だったようである。
もちろん人間科学の一翼を担う歴史学が,法則性を無視して成り立つわけはない。ただ歴史学の役割の一つは,一般性への執着によって専横になりがちな法則定立的学問への異議申し立てであり,経済史も法制史もそれを分け持っているところによさがあると感ずるこの頃なのである。


特別報告  中世後期民事手続の類型論について:伝統と学識法
カーリン・ネールゼン=フォン・シュトリューク(フライブルク大学)

 報告の第一部では、数多くの裁判所とそれらに特有の手続諸形式の間から、14世紀の農村部や都市の多くの参審人裁判所でなお行われていたような、伝統に拘束された非学識的な手続の基本的諸特徴を際立たせることが試みられる。この伝統的な手続類型の中でもかなり幅広いヴァリエーションが存在し、しかも農村部については史料がきわめてわずかしか伝存していないので、一般化には慎重さが要求される。それでも、恒常的な基本的諸特徴として、手続の公開性と口頭性、裁判官と参審人の分離、著しい当事者主義があげられうる。しかし、ある種の儀式的な形式被拘束性以上に、訴訟形式主義と訴訟危険、つまり形式に違反した場合に敗訴するか高額の罰金を支払わねばならないという危険とがどの程度手続を支配していたかは未解決なままにしておかなければならない。
 報告の第二部はローマ・カノン法民事訴訟を扱う。これは12世紀にローマ法と古代末期にまでさかのぼる教会の諸史料を基礎として発生したもので、12世紀の教皇令によって更に発展させられ、既に13世紀初めにはその類型の面で完成していた。報告において、この学識法訴訟は、まずその近代性の点で対照的な類型として、伝統的な非学識的手続に対置される。結局のところローマ・カノン法民事訴訟が今日の民事訴訟の前身なのである。しかしその後にだんだんと、中世特有と見なされうるような、そしてローマ・カノン法民事訴訟を中世の精神的・政治的世界に根づかせているような諸特徴が明らかにされる。すなわち中世の訴訟学者の問題意識、テクスト被拘束性、および伝統主義、そしてとりわけ弁論主義と証拠理論の優位である。これらの訴訟原則の効果は、発達の基礎がまったく異なっていたにもかかわらず、伝統的な非学識的手続とある種の類似を示しており、もしかすると中世の学識的・非学識的世界に共通の、裁判および裁判官についての理解にその原因を有するのかもしれない。


法律専門職とジェンダー ──比較法史学的一考察──
黒田 忠史(甲南大学)

 旧拙稿「弁護士資格の制度と機能」(『近代ドイツ=「資格社会」の制度と機能』所収、名古屋大学出版会、1995年)でも少しは意識したつもりであったが、「ジェンダー史の視点」の不足との指摘があった(「歴史学研究」第682号、1996年3月)。本報告は、近時の「ジェンダー法史学」研究の成果(2003年4月法制史学会シンポジウムなど)から学びつつ、法学教育・法曹養成の歴史における「ジェンダー・バイアス」の実態、歴史的変化、原因などについて法史料に即して考察する。我が国では意外にも、このテーマについてのまとまった先行研究は未だないように思われる。
 報告では、主として19/20世紀転換期からワイマール共和国に至るドイツの法学教育・法曹資格への女性のアクセスをめぐる論争および立法過程とその帰結に焦点をあてるが、異なった国家・社会構造と独自の法曹養成システムをもつアメリカと日本(拙稿「法曹養成制度の歴史的諸類型」(甲南法学 42巻1・2号[2002年]参照)における「ジェンダー・バイアス」問題を比較の素材として取り上げる。
 すなわち、ドイツでは国家官僚制(大学教授を含む)の下で、19世紀90年代まで女性は正規の学生登録も聴講も許可されなかった。1900年のバーデンを皮切りに各邦でそれが解禁されるが、第一次国家試験(司法試験)の受験資格は認められないままであった。ワイマール共和国になって、司法大臣ラートブルフの強いイニシアチブにより、女性の国家試験受験と法曹資格獲得の機会が立法により実現する。とはいえ、1921年の第4回ドイツ裁判官会議は、ほぼ全員一致で女性の裁判官職就任に反対していた。その後も女性法曹の人数は微増にとどまり、ナチスによって再び禁止されるという過程をたどった。
 アメリカでは、いくつかの州で19世紀中頃から女性弁護士が生まれているが、ロースクール入学と弁護士団体登録という2つのハードルが「社会的権力」として女性の進出を阻んできた。ハーバード大学ロースクールは1950年まで女性の入学を認めなかった。日本では、周知のように、1933年の「弁護士法」改正により女性の弁護士登録の道が開かれ、1938年に3人の女性の「弁護士補」が誕生した。
 このような各国の経緯の背景にある社会的・心理的諸要因についても、同時代の様々な言説を手がかりに分析を試みる。


民俗学として語られたドイツ法史学 ――死者儀礼をめぐる20世紀初頭の議論に注目をして―― 
井上 琢也(國學院大學)

 かつて、ドイツにおいて、法史学が法民俗学としてのみ語られようとした時代があった。言うまでもなく、ナチス政権下の法史学は象徴・儀礼研究に満ちあふれており、それらの民俗学的研究が法史学を席巻していた。このため、法民俗学はナチス法学批判の一環として取り上げられることが多いが、この研究領域が30年代に突如現れたものかというと決してそうではない。ナチス法史学期に語られた論点の多くはすでに世紀転換期から20年代にかけて論じ尽くされていた。
 本報告では、象徴・儀礼についての法民俗学研究が20世紀初頭においてどのような状況にあったかを、死者をめぐる儀礼についての議論に注目をして紹介してみたい。この時期の死者儀礼論については、阿部謹也氏が「死者の社会史・心性史」の文脈で詳細な紹介を既にされている。しかしながら、死者儀礼をめぐる問題は、阿部氏が紹介された、Amiraらの死刑論にととまらず、この他にも様々な形態で、一様にアクチュアルなディスクールとして語られていた。例えば、ユダヤの「儀式殺人」は、同時代的な問題として、刑法・犯罪学の枠内で語られた法民俗学的論点の典型であった。このような論点を取り上げて、法民俗学が「生きられた」法史として、同時代の思潮とどのように共振していたかを明らかにすることが本報告の目的となろう。
 法史学が民俗学の影響を強く受け象徴学化していくプロセスを整理するこれらの作業と併せて、中世の死者論が中世社会の心性史として語られるのと同様に、20世紀初頭の死者論があらわにする、世紀転換期のドイツ知識社会の心性についても、祭祀秘密結社論等に言及しながら、検討してみたいと考えている。



清代地方官の公共事業財源確保策
喜多 三佳(四国大学)

 本報告は、いわゆる「州県自理の案」について、清代の地方官がいかに行政の財源確保との一石二鳥をねらった対応をしていたか、という点について検討しようとするものである。
 前近代中国では、正規の地方経費のみでは、とうてい地方行政がなりたたず、非正規に経費を調達する、ということが慢性的に行われてきた。非正規の調達方法のうち、附加税の徴収、徭役の割り当て等については、多くの先行研究がある。
 本報告では、康煕末年(1720年ころ)の浙江省で、上級行政庁が下級行政庁に割り当てた公共事業の経費をめぐって、上下の軋轢を生じるような状態にあったこと、地方官自ら、ひんぱんに義捐金を出し、公共事業費に充当していたことを前提として述べ、罰金や犯人から没収した財産が、県レベルの公共事業の財源に充てられていた事例を紹介して、このような措置を可能にした背景について考察する。
 主な史料として用いるのは、『天台治略』10巻 戴兆佳 撰康煕60年(1721)刊 である。


土地を巡る「舊慣」と『臺灣私法』 ―「不動産權」をめぐるテキスト分析を素材として―
西 英昭(京都大学)

 あるテキストを読む際には、ただ漫然とその記述を受け取るのではなく、いかにしてその記述がなされるに到ったかという作者の思考過程の変遷をたどり、他の記述の可能性との緊張関係を復元しその間の差異を抽出することで、その記述にヨリ明確な意味を見出すことが可能となるといえる。
 本報告は、東洋法制史学の一つの出発点に位置する『臺灣私法』(臨時臺灣舊慣調査會・1910)の不動産に関する「舊慣」に関わる記述を素材とし、同書に至る先行報告書群を発掘し、それらに対し層位学的手法によるテキスト分析(校合)を加えることにより、同書の成立過程における作者の思考過程の変遷、そこで取り組まれた固有の課題について考察する。テキストでは「所有權」に限りなく近接した概念として設定される「業主權」、その「沿革」として設定される「大租」及び「地基」の慣習をめぐる記述を分析し、その論拠と記述の関係、現実の状況と記述の間に展開された緊張関係を分析する。
 以上を受けた「業主權」を巡る議論では、金融・租税制度の確立への要請を背景に、各人が各様の「権利」を持って土地に関与するという「所有」のあり方(そしてそれは多く英国法に由来する概念により説明が行われる)が一方で認識されつつも、「土地ニ關スル最強ノ權利ヲ有スル者、即所有權者」を中心とする「所有」のあり方への傾斜が提示されていた。本報告における校合によるテキスト分析からは、他にも議論過程に伏在した多くの論点を抽出することが可能となり、これまで十分に認識されてこなかった議論の範型が曾て存在したことを新たに認知することが可能となる。
 『臺灣私法』における作業は、少なくとも単なる外国法の当て嵌めという単純な性質のものではなかった。同書に対するあらゆる短絡を排し、作者が時代状況に規制されながらも取り組んだ課題、その議論の様相について、一端を明らかに出来ればと思う。


中世日本における謀反人跡地頭職と検断
田中 茂樹(大阪大学名誉教授)

1 古代律令国家と近世幕藩体制との中間に位置する中世日本国家をどのように特徴づけるかについては定説がないが、1960年代に黒田俊雄氏が提唱した権門体制論は、荘園公領制などの経済学用語で国家を特徴づけることを方法論的に批判し、中世国家が皇室・摂関家・有力寺社・武家棟梁・幕府などの諸権門が最上位の領主として国土王民を連携しながら支配する「職」の体系であることを指摘した点において傾聴に値する。しかし黒田説が国家のイデオロギー性を強調する余り、紛争の法的処理における武力装置としての「幕府」のもつ独自の機能を軽視したことは種々の混迷を惹起したと思われる。
2 そこで本報告は一方で、諸先学の業績にもとづき、鎌倉幕府の地頭・守護・六波羅がどのような経緯によって重犯の「検断」(検察と断罪)の公的権能を獲得したかについて法制史学的に概観し、他方で和田合戦および承久の乱が「謀反人所帯跡地頭職補任」の法理を確立する上で画期的であったことを貞応2年(1223)の「淡路国大田文」における地頭守護交替および同時期の「新補率法」を素材として論じたい。
3 ちなみに敵対者の間のいずれが謀反人でありいずれが公権力であるかの問題は、石井紫郎氏「合戦と追補」(国家学会雑誌91巻7・8・11・12,1978年)における私人の実力行使と法的な公戦との関係の問題の一環であり、英国の法理学者ハートにおける「責務の第一次ルール」と「権能の第二次ルール」との区別に関わる法的ルールの体系の問題でもある。

 参考文献:新田一郎「日本中世法制史研究の動向から」法制史研究第36号(1987年)、
      拙稿「淡路国大田文における承久没官地」阪大法学55巻1号(2005年)。


日本近世刑事裁判の問題 ―春原博士旧蔵関西大学図書館所蔵 尾張藩名古屋町奉行所関係文書から―
蘆田 東一

 関西大学図書館所蔵の名古屋町奉行所関係文書には、現在の刑事事件に該当する事件の不完全ながらも一件書類とすべきものの写し二十三件や同種犯罪の処分例を綴じた文書などが含まれている。これらの文書については春原源太郎「名古屋町奉行所の取調記録」(『日本歴史』177、1963-2)、藤原有和「尾州領における無宿盗賊と番人」(『部落問題研究室(関西大学)紀要』10,1989)などの研究によって紹介され、考察が行われている。
 春原氏は、「民刑ともそこに裁判手続の発達があったこと、ときには不必要なまでに定型化した手続の存在した訴訟手続法の発達史を訴訟法学者も注目して欲しいと考える。」と、江戸時代裁判手続の発達を述べる。
 死罪となった事件の一件書類には、町奉行より「評議」に出された処分内容の「伺」とそれについて家老から町奉行に下された、処分の内容については同じ「御達」がある。このような手続は日本近世期においては幕府、諸藩において同様に行われたものである。ここでは「裁判」は誰の責任で行われたことになるのであろうか。「裁判手続の発達」を説かれる春原氏自身、奉行が「裁判」に関与するのは通常第一回目の審理と最後の判決言渡のときで、裁判は与力と同心でほぼ遂行されたとする。
 最終的な決定は「評議」で行い、それを奉行が言い渡すにすぎない、という理解もある。それでは、一切の取り調べ、審理に加わらない者が決定するという「裁判」ということになる。
 さらに言渡される「判決」は、犯罪名ではなく「不届」「不埒」の「詰文言」をもって刑罰を科す根拠としている。それは科される刑罰の軽重と対応しており、名古屋町奉行所も幕府の手続と整合している。刑罰を科す根拠が「不埒」「不届」あるいは「不届至極」であって、いかなる罪であるかということについて「判決」には一切の言及はない。罪名の記述がない。これは「法的規範」についての言及がないことになるのではないのか。
 このように罪名を明示しないで、刑罰を科す「判決」が、必ずしも責任が明確でない「所」で作成されている「裁判」を考察する。


「公事方御定書」下巻に関する疑義―伝本とその呼称について―
高塩 博(國學院大學)

 本報告は、「公事方御定書」下巻に関する従来の基礎的理解につき、二つの疑義を投げかけるものである。
 第一は伝本の理解についてである。周知のように、「公事方御定書」下巻は夥しい数が筆写され、今日に多数の写本を伝えている。その伝本についての代表的理解は、「現存するものは、延享以後宝暦迄の追加を含み、合計百三条あり」(石井良助『日本法制史概説』375頁)、「現存するものはいずれも宝暦四年迄の追加を含んでおり、上巻は書付八十一通、下巻は百三条になっている」(平松義郎「「徳川禁令考」・「公事方御定書」小考」(2)『創文』187号24頁)というものである。しかしながら、多数の伝本中には百三条に満たない伝本、つまり宝暦の追加を含まない伝本を時折見かけるのであって、従来の見解は必ずしも的確ではない。
 第二は呼称についてである。「公事方御定書」下巻を説明するとき、「俗に御定書百箇条と呼び」「世に御定書百箇条として名高い」「別名御定書百箇条ともよばれ」などと、「御定書百箇条」の語を常套句のように用いる。たとえば、平松義郎氏は、写本の流布に言及する際、「寛政期(1789-1801)には早くも藩や民間にも写本が流布していたと推定される。流布本には103条本のほかに100条本があり、下巻について「御定書百ケ条」の俗称を生んだ」(『江戸の罪と罰』27頁)と述べる。これらの言説は、「御定書百箇条」の俗称が、あたかも江戸時代において広く行き渡っていたかの印象を与える。しかし、この俗称を表題とする伝本を見出すことは極めて困難である。「御定書百箇条」の呼称が江戸時代に一般的であったと考えるのは無理なようである。
 欲を言えば、この二つの疑義を出発点として、「公事方御定書」についてどのような事柄を読み解くことができるのかを考えてみたい。


「官報」の創刊経緯について ―明治期における法令伝達研究の見地から―
岡田昭夫(早稲田大学)

 従来、「官報」の創刊に関しては、国立公文書館所蔵の「公文別録」を基礎史料として、山縣有朋が主導した創刊経緯が論じられることが多かった。しかしながら慶應義塾大学刊行の『福沢諭吉全集』に大隈重信による「法令公布日誌」構想が紹介されている。これに端を発し、報告者が調査を進めたところ、国立公文書館に大隈の同構想に関する公文書が存在することが明らかとなった。そこで本報告ではこれらの史料を基に、大隈の「法令公布日誌」と山縣の「官報」構想の整合性について検討を試みたい。
  また、報告者は一連の法令伝達研究の調査過程で官報創刊準備に関して詳細に記録された「太政官文書局記録」に出会った。これは、史料価値の検討が進捗すれば、明治十六年前後の公文録を補完する史料となる可能性を有する。本報告ではこの史料を紹介したいと思っている。
  さらに、報告者は、法令伝達に関する一連の研究の過程で、明治十四年の大隈の「法令公布日誌」構想と相前後する時期に発令された「各省事務章程通則」が、「法令公布日誌」ないし「官報」を創刊せざるを得なくなるような、不可避的な制度変革を中央権力機構にもたらしたと考えている。
 法令伝達の見地からは、太政官内閣制は上記「各省事務章程通則」の制定で大きな転機を迎えると言えよう。すなわち法令の発令件数を調べると、明治十五年には発令件数そのものは前年を下回っているが、太政官の発した法令件数が全法令に占める割合は、突如前年の倍以上に突出した。これは明らかに上記「諸省事務章程通則」第四条による機構改革に起因する。同条により実務諸省の首長である卿が当該実務執行について天皇への補弼責任を負担することになり、太政大臣のみが補弼責任を負うという従来の太政官制に大きな変化をもたらした。しかしこのため、各省が人民一般に対して発令していた布達は、省卿の副書に伴い発令機関が本官たる太政官へと必然的に移行することとなった。そのため従来各省が独自に発令していた布達は、たとえそれが各省の専権にかかる立法分野であっても、太政官が省側から伺を受け稟議取り決めの上指令を発し、省側が草案を起草し太政官がそれに決裁を与え布達として発令し、必要な場合は当該法令を制定した旨を他省庁に示達するという複雑な手続きを強いられることとなり、発令件数は激増し、文書処理は煩雑化し、その結果太政官に予想以上の過剰な負担を強いる結果となったのである。
 本報告では、上述の経緯が官報の創刊にいかなる影響を与えたかを検討し、会員の皆様方のご指導を賜れれば幸いである。


梅謙次郎におけるローマ法とフランス法の位相 ――『和解論』をめぐって――
辻村 亮彦(東京大学)

 明治民法等の起草者である梅謙次郎は、同時代人をして「頭脳明晰、周密」にして「法律家中の法律家」と評せしめたように、極めてブリリアントな立法家、法学者としてわれわれに記憶されている。しかし、彼についての鮮烈なイメージとは裏腹に、彼の法学者としての活動についての、彼の残した著作や立法資料等に内在的に立脚して得られたわれわれの知見は、いまだ断片的なものに止まっているように思われる。本報告では、その欠を若干でも埋めるべく、彼がフランス・リヨン留学に際して学位論文として提出されたDe la transaction (1889)(『和解論』)について、分析を試みる。
 この『和解論』は当時のフランスの学位論文の制度に則り、大きくローマ法研究とフランス現行法研究の2つの部分に分かれ、それぞれ300ページを超える長大な論文である。この論文は、梅の最初の学問的な著作と呼ぶべきものであり、それゆえ梅法学の萌芽を示す最良の文献であると同時に、その分量やそこで展開されるきわめて精緻な議論ゆえに、梅の法学的思考をもっともよく示している文献である。
 和解契約transactionは、紛争解決のために互譲によりなした当事者間の合意、といういわば「実体法」的な概念であるが、訴訟や他の紛争解決手続との関連を濃厚に有しており、梅におけるtransactionの観念を読み解くことで、法システムへのトータルな見通しを読み取ることができる。このテーマの持つこのような特性を生かしながら、ローマ法研究における梅の歴史的素材に対する態度や、ローマ法研究とフランス法研究との架橋において見られる、法と「歴史」との連関のありようなどを検討したい。このような検討を通じて、日本の法的な「近代化」、「西洋化」を使命としてフランスに渡った梅が、自らの法学の形成においてローマ法、フランス法をどのように摂取し、また、そのことが梅の法学、あるいは広く日本の法学にとってどのような意義を有していたかについての示唆を得たい。
(以上)



見 学 会


 貸切バスを利用して、天草・古キリシタン関係史跡を見学いたします。天草五橋を渡り下島・羊角湾(ようかくわん)の崎津(さきつ)、天草灘に面する大江に至る行程はいささか長旅のため早朝の出発となり慌しいのですが、なかなか得難い機会です。奮ってご参加くださいますよう、ご案内申し上げます。
 なお、熊本大学教育学部教授 鶴島 博和(イギリス中世史)氏が同行し、皆様をご案内いたします。

 日時 2005年10月17日(月曜日)
 集合時刻・場所 午前8時 
熊本市民会館前
(集合場所の詳細等については、ご参加の方々にあらためてお知らせいたします。)

○ 天草は殉教の島と言われています。天草・島原の乱と原城での壮絶な最後(寛永15[1638]年)がいやがうえにもその思いを強くします。文化2(1805)年、その天草で「隠れキリシタン」が発覚しました。世に言う「天草崩れ」です。隠れの人々は乱後の厳しい弾圧に耐え、二世紀近く密かに信仰を守ってきた。隠れキリシタンの歴史は、そうしたシナリオで描かれてきました。天草町大江集落は天草崩れのさい、住民の半数が「キリシタン」とされました。彼らは、水方と呼ばれる聖水の管理者を中心に、上組(山方)と下組(海方)の2つのコンフレリ(兄弟団)を作り、それぞれ独自の太陽暦のもとで信仰生活を維持していました。このように住民の半分を占めていた彼らが二世紀近くも<隠れる>ことは、果たして可能だったでしょうか。この意味では、「隠れ」キリシタンは必ずしも歴史の事実に即してはいません。
○ 見学会では、まず、上島・有明町の上津浦(こうつうら)で乱以前の教会(南蛮寺)の跡地やキリシタン墓碑群を訪ね、天正16(1588)年に廃城となった中世の城、上津浦城跡の景観を遠望します。つぎに下島に入って、大江集落の隣、崎津集落のカトリック教会の景観を楽しみます。羊角湾というおよそ日本風らしくない名前をもつこのリアス式海岸に臨む教会は、皆様の新たな発見になるかもしれません。
○ 本見学会の中心である大江集落では、上記水方の子孫である山下大恵(やました ひろしげ)氏の案内も交えて所謂「隠れの里」を探訪します。予定コースは、天草ロザリオ館(隠れに関する博物館)、古寺、妖蛇畑(聖水の取水所と想定される場所)、山下家の隠れチャペル、山下家の墓地での観音型マリア墓石です。上組と下組の地理的境界に留意しながら巡見をおこないます。関係史料の閲覧は、天草崩れに関するものを数点、ロザリオ館で予定しております。なお、参考までに、明治16(1883)年創建の大江の教会(現在の建物は昭和7年ロマネスク式に改築されたもの)には、明治40年8月、新詩社の詩人与謝野鉄幹・北原白秋・吉井勇・木下杢太郎・平野万里の「五足のワラジ」が立ち寄っております。

 解散時刻・場所 午後6時(熊本空港)
           6時30分(熊本交通センター)
           6時40分(熊本駅)