法制史学会第52回研究大会・報告要旨


神聖な場所に関する特示命令の起源と射程
  ──特示命令の生成と展開に関する予備的一考察
佐々木 健(京都大学大学院)

 古代ローマの法制は、「訴権actio」の体系とも評される。その中にあって、私人が自らの利益を実現させるべく裁判者に保護を求める手段としては、「特示命令interdictum」と呼ばれるものも用いられた。そして、数ある特示命令に特徴的なのは、適用領域に関して公的利益が共通することであった。

 ところで、特示命令のうちで最古のものは、一説には「不動産占有保持uti possidetis」特示命令とされた。その根拠としては、当事者に対する暴力の行使を禁じるものであること、その禁止違反に対する手続が仰々しいものであること、多くの、特に占有に関する特示命令がこれを範として作られたと考えられることが挙げられる。そしてこの特示命令は、公有地ager publicusに対する占有の保護に用いられたことから、やはり公的利益が関連していると言える。

 これに対して、「あることが神聖な場所でなされないようにne quid in loco sacro fiat」という特示命令を最古のものと考える学説も存在する。紀元前213年の神殿占拠事件に際して出された告示edictumと、後代の史料から確認されるこの特示命令の内容との類似性が、この学説の根拠となっている。この学説は前述の学説と全く相容れないものではなく、両説は互いに成立可能であることは認め合っている。

 本報告では、特示命令の生成と展開とを考察する試みの一端として、公有地と神聖な場所とが共に「財産を構成しない物res extra patrimonium」とされることに注目しつつ、両説のうちで神聖な場所に関する特示命令を最古のものとする学説の妥当性を考察する。その際、特示命令が必要とされた背景にも触れることで、特示命令の特質を一層明らかに出来ればと考える。


都市災害における賃借人の地位──立法史的研究
小柳 春一郎(獨協大学法学部)

 平成7年1月の阪神・淡路大震災後の復興過程においてマンション,土地区画整理と並ぶ重要性を有したのが借地借家問題であった。本報告は,ここで適用された罹災法(罹災都市借地借家臨時処理法,昭和21年)について検討する。罹災法は,関東大震災後の借地借家臨時処理法(大正13年)に源流を有する戦災復興目的の法律であり,@罹災借地権者保護として,対抗要件なしの対抗力規定を設け,A罹災建物借主の保護として,(i)優先借家権(再築建物を優先して借受ける権利),(ii)優先借地権(罹災建物借主が建物所有目的で土地賃借申出し,正当事由を備えた地主による3週間以内の拒絶がなければ相当な借地条件で期間10年の土地賃借権設定をうける権利),(iii)借地権優先譲受権を与える。通常の法理とは異なる借地権借家権の強制的設定が特徴である。B紛争処理につき賃借条件のみならず賃借権設定の有無(権利の存否)について罹災非訟手続(非公開・職権主義)を予定し,これを合憲とした最大判昭和33年3月5日では違憲とする少数意見もあった。

 罹災法は,既存抵当権と優先借地権の優劣が議論になるなど民事法としても難しい法律であるが,その特徴を理解するには歴史的考察が必要である。本報告では,大正時代からの都市災害と賃借人保護法の歴史――関東大震災後のバラック問題や虎ノ門事件が賃借人保護法に与えた影響,戦災復興,昭和30年代都市大火,昭和40年代以降の都市大火克服,阪神・淡路大震災後の議論及び裁判例――を検討し,近代日本において都市災害がどのように変化したか,災害復興に賃借人がどのような位置を与えられてきたかを明らかにすることにより,現在の法律問題に歴史及び法史研究が関わりうることを指摘する。


──── シンポジウム「法が生まれるとき」 ────


趣旨説明
新田 一郎(東京大学大学院法学政治学研究科)
林  信夫(京都大学大学院法学研究科)

 本シンポジウムの主題を示すタイトルを、「法が生まれるとき」と掲げた。この主題は、企画委員会案(新田委員提案)に開催校の発想を加味して設定したものである。

 この主題は、「法」の存立の臨界条件に関わる。いかなる条件のもとで「法」が「法でないもの」から分かたれて存立するのか。それは、ある社会に「法が存在する」ということが、「法が存在しない」ということから区別されて成り立つ、その区分に関わる問いである。法学のあらゆる分野に関わりを持つに違いないこの問いに、「歴史」を自覚的に関わらせることが、法制史学会においてこの主題を提起することの持つ意味となろう。

 「法が生まれるとき」という主題からは、第一に「立法」をめぐる問題への関心が導かれる。ある社会において、「法」が「法」でないものから区分されて作動せしめられるメカニズムの共時的な構造を問題にすることは、「法が生まれるとき」を問う、可能なひとつの視座であろう。すなわち立法・施行・適用といった手続やその効果のありかたを分析することによって、それぞれの社会、それぞれの時代における「法の生まれかた」についての知見が得られ、議論の材を得ることができるだろう。いわばそれぞれのメカニズムに内在する「とき」を析出することが、具体的な作業課題のひとつとなる。

 本シンポジウムはしかし、そうして析出される多様な構造をただ並列するのではなく、それぞれの構造の持つ歴史性に着目することによって、相互の比較の可能性を追究することをも意図する。ある社会、ある時代において「法を生みだす」メカニズムが存立していることは、決して自明ではない。そもそも社会に「法」を供給するメカニズムが存在し、供給された「法」が人々の間において用いられる、ということ自体が、歴史性を色濃く帯びた現象であるに違いない。だとすれば、そうしたメカニズムを歴史のなかにおき、それ自体の生成のプロセスを問うことは、「法が生まれるとき」を問うための、いまひとつの重要な視座でありえよう。そこで問われる「とき」は、メカニズムに内在する「とき」ではなく、メカニズム自体がその内部において生成される歴史的な「とき」である。そうした「とき」をめぐる問いは、メカニズム自体や、そこから生みだされる「法」の持つ多様性を、相互に比較可能な形で認識するいとぐちともなろう。個別報告が主として古代・中世に関わるものであることは、こうした問題関心に対応している。

 2日間にわたるシンポジウムは、基調報告に続き、個別報告を「西洋世界」「非西洋世界」とおおまかに二部に分かって配列し、ついで関連各分野からのコメントを求め、最後に総括報告を用意する。ギリシア・ローマから日本・中国・イスラーム社会に及ぶ多様な個別報告によって、まずは多様な「法が生まれるとき」が例示されよう。そしてさらに、個別報告をめぐる議論をそれぞれの分野において完結させず、個々の射程を超えた横断的な議論を喚起することを意図し、敢えて多様な分野・領域の研究者をコメンテータとして迎えることにした。すなわち、法哲学・法社会学の専門家には「法」の存立の臨界条件に関する理論的関心に基づくコメントを、実定法学・法制史学の専門家には近世ないし近代の社会が前代から相続した「法」の歴史性を踏まえたコメントを、期待する。さらに、国際法の専門家による特別講演を予定し、現在進行形で「法」が生みだされつつある状況を、歴史上の事象と対置することによって、主題への別角度からの接近を試みる。

 以上のような多様な素材を縦横に組み合わせることによって、「法があること」の成り立ちの歴史性についての認識が深められれば幸いである。


古代ギリシアにおける法の「解凍」について
葛西 康徳(新潟大学法科大学院)

 本報告は、古代ギリシアの法廷弁論作品において、「法(nomos(nomoi複数))」が弁論家によってどのように言及されているかについて考察することを通じて、「法のうまれるとき」という共通テーマに対して、古代ギリシアからのアプローチを試みることを目的とする。古代ギリシア法(以下異論はあろうが、アテーナイ法を念頭において論ずる)に対する分析の困難さは従来から指摘されてきた(例えば、M.I.Finley, Ancient History ──Evidence and Models──, London 1985,‘The Problem of Greek Law’, 99-103)。確かに、「法」を表すnomos (nomoi)の多様性、実体法のみならず手続法の不完全性、いわゆる「民主的な」裁判構造などを、アリストテレースの『弁論術』における法の扱い方と重ね合わせるならば、古代ギリシアにおいて法の位置や輪郭を確定することはほとんど不可能とすら思われる。しかしながら他方では、初期から「立法」活動は存在し、紀元前5世紀末、アテーナイでは法の「編纂」が行われる。このように錯綜した事情にあって、本報告では、ソローンに由来する可能性がある「ヒュブリス(「傲慢」「横暴」、「濫用」等と訳されるHybris)」に関する法を取り上げ、最近の研究(例、Adele Scafuro)を参考にしながら、それが紀元前4世紀の法廷弁論作品において(例、Demosthenes 21,43, Isaios 11)どのように引用され、弁論作品のナラティブの中にどのように埋め込まれているかを分析する。そして、法に対するこのような法廷弁論家の知的対応を仮に「解凍(‘unpack’,Robin Osborne)」と呼び、他の法文化における法律家ないし法学者の知的活動(例、「法の解釈」)と比較する視点を提供したい。最後に、もし可能ならば、法に対する知的対応という側面から法を考察することが、「法のうまれるとき」というテーマに対する共通の視座を提供できるかどうかについて議論できればと考えている。


ローマのlegis actio sacramento in remおよびmancipatioについて
小川 浩三(桐蔭横浜大学法学部)

 近年わが国の私法学者などにおいて、生産関係に簡単に還元されるようなきわめてナイーヴな「所有権」概念が、またもや出回っている。しかし、ローマにおける所有権を争う訴訟といわれているlegis actio sacramento in rem、および、所有権移転行為といわれているmancipatioは、神官たちによってきわめて技巧的に作り上げられたもので、およそナイーヴさとは程遠いものである。本報告では、こうした技巧的な側面からこの両制度を考察した近年の業績であるJ.G.Wolfの論文(Legis actio sacramento in rem, 1985; Funktion und Struktur der Mancipatio, 1998)、および、それに対する批判を紹介することで、早期ローマにおける「法のうまれるとき」考察の材料を提供してみたい。さしあたりの見通しを述べておけば、技巧性は、精密な儀礼を用いることに現れる。その機能は、一つには、人類学や社会学のキーワードとなっているreciprocityを一方で切断し、他方で、それを厳密な仕方で利用することに関わる。今一つには、行為の公開性・公共性、したがって共同体による承認の確保に関わる。なお、以上のことに対しては、史料の乏しい中で想像をめぐらした結果だという批判は可能であろうが、それでも分析することなく無批判に「所有権」を想定することに対しては、「毒消し」としての意味をもつであろう。


法の生まれるとき──初期中世ヨーロッパの場合
西川 洋一(東京大学大学院法学政治学研究科)

 中世ヨーロッパは、「法的なるもの」を完全に自らの中から自生的に生みだしたわけではない。それは、中世ヨーロッパの多くの文化事象と同じく、古典古代末期の遺産なしには、それが生じた形では決して生じえなかったものである。われわれが史料の中に「法的なるもの」を検出する際の基準となるイメージすらも、古典古代の法的世界に多くを負っている。他方で、古典古代からの「借用」を探索し、証明するだけでは、中世ヨーロッパにおける「法的なるもの」の形成過程とその歴史的個性を明らかにすることができないこともまた確かである。かくして課題は、それ自体が古典古代から受け継いだ文化的遺産であり、それに対応したバイアスを持つはずのラテン語とその概念世界に大きく依拠して書かれた史料を素材として、初期中世ヨーロッパにおける「法的なるもの」の形成を跡づけるという困難なものたらざるを得ない。中世ヨーロッパにおいて「法の生まれるとき」を追跡することには、常にこのような大きな制約がつきまとうことになる。

 しかしそれだけに、初期中世の多くの文化領域において古典古代末期からの連続性を強調することが自明化した現在の研究状況を前提として、19世紀以来、法制史研究が繰り返し扱ってきた多様な法史料をもう一度読み直すことが、現在必要であるように思う。本報告では、戦後多くの論稿が発表されてきた部族法典や証書にとどまらず、証書文例集をも中心的素材として、後代に連なる「法的なるもの」の初期中世ヨーロッパにおける形態に関し、試論を展開してみたい。


中世後期イングランドにおける仲裁の位置
北野 かほる(駒澤大学法学部)

 英米法においては伝統的に仲裁が重要な紛争解決類型として存在してきたこと、仲裁判断が裁判上保護されてきたことはよく知られている。しかしイングランドで仲裁がいつごろどのようなかたちで存在していたかは必ずしも明らかにされてこなかった。

 イングランド中世史において仲裁が注目されるようになったのは1980年代末からであるが、当初、主に社会上層部における裁判に替わる紛争解決方法であったと考えられていた仲裁は、現在では、広範な社会層において裁判と相互補完的に用いられていたと考えられるようになってきている。その意味では、仲裁は裁判と並列的な「法的状態が生まれる場」であったといえるが、裁判と択一的あるいは排他的な関係にある紛争解決手段ではなく、和解、調停および裁判と連続的な位置関係にある紛争解決手段であったと考えられる。しかしながら、教科書的説明では、仲裁は裁判代替的な紛争解決方法として、「法廷外の」extra-judicialな存在であり、仲裁の隆盛は裁判の機能不全の裏面であったとされるにとどまる。中世後期イングランドにおいて仲裁が全社会層にわたって無視できない重要性を持つ紛争解決方法であったという共通の理解が生まれてきているとはいえ、紛争解決方法全般の中での仲裁の位置、とりわけ仲裁と裁判との関係それ自体に着目した分析が進められているとはいいえない状態が続いている。

 こうした状況の一因は、仲裁に関わる史料が偶然的断片的にしか残らず、そのために仲裁全般についての掘り下げた分析は困難であるという一種の「思いこみ」にあった。仲裁が「法廷外」の私的脈絡における紛争解決であったため、仲裁を巡る情報はそもそも文書に作成されないかあるいは作成されても私文書にとどまって結局は散逸してしまったと考えられてきたのである。しかし、国王書状録への私文書の登録や不法行為裁判記録を精査すると、仲裁への言及が少なくないことが明らかになる。これらの記録は確かに仲裁過程それ自体の記録を目的として作成されたものではないが、偶然的断片的な残存情報のレヴェルにとどまるものではなく、またその数も少なくはない。これら史料を大量に処理することによって、中世後期イングランドにおける仲裁の全体像の少なくとも一端に迫ることは可能であると考えられる。本報告では、とりわけコモン・ロー裁判と仲裁との関係に注目しながら、中世後期イングランドにおける仲裁について調査し得た限りの情報の体系化を試みる。


〔特別講演〕法が生まれるとき──国際法の場合
小田 滋(前国際司法裁判所裁判官・東北大学名誉教授)

 「法が生まれるとき──国際法の場合」というテーマを与えられて、一体国際社会というものが何時からあったのか、そこに法があったのだろうか、歴史に疎い私には判らない。ただ16、17世紀ころからひとにぎりの学者がius gentium国際法と称する概論書をかきはじめている。近年ではむしろそうした書物そのものを国際法の源流と理解しているようである。重ねて私には判らない。

 国家間に法規範意識が生まれるのは19世紀後半、それももっぱら戦争の仕方についてであろう。そうして紛争を平和的に解決すべしとする規範意識である。主としてロシアの主導のもとに、戦争についてのルールがヨーロッパ列強の間の条約という形で策定される。一般的な法規範はわずかな分野で生まれたに過ぎない。それも慣習法と言えるかどうかも問題である。そうして国際間の裁判制度がごく原初的な形でスタートした。

 こうした混沌のなかからあえて国際法の法典化を、あるいは立法化を試みようとしたのが1930年の国際連盟の法典編纂会議である。そこで採択されたのはあくまで法典案であり、海洋制度、国籍制度、国家責任の分野であった。こうした試みは第二次大戦によって中断され、すべては戦後の国連に引きつがれた。国連がその発足以後行ったもっとも注目すべき事業が国際法の法典化、立法化の事業である。人権条約、環境条約、外交関係条約、領事関係条約、海洋法条約、宇宙条約など各分野にまたがる。これらは国連の国際法委員会が数年の審議を経て発議し、世界各国の全権代表が一堂に会して一般条約という形で採択する。これで国際法は生まれたのか。各国がこれに署名し、批准して拘束的な法規範として受け入れるかどうかは別である。

 私自身、海洋法の作成に深く関わった経験から、実態は内容に無知な全権会議における各国外交代表の手の上げ下げの多数決で決まってゆく国際法にいささか疑念をもち続けて来たことに触れることが出来ればと思う。


御成敗式目の成立をめぐって
長又 高夫(國學院大學日本文化研究所)

 本報告では貞永元年(1232)八月に武家の基本法として制定・発布された『御成敗式目』の基本的な性格について論じてみたい。鎌倉・室町両時代を通じて、武家法の根幹とされた御成敗式目について論じた研究は数多いが、残念ながらその政治的な意味や、後に発布された追加法との関係を論じたものがその大半であり、法典としての『御成敗式目』そのものの性格を論じた研究は数少ない。そこで本報告では、シンポジウムのテーマに沿って、武家の基本法典たる『御成敗式目』が、どの様に編纂されたのを具体的に検討してゆくつもりである。そのことにより『御成敗式目』の基本的な性格も明らかとなろう。

『御成敗式目』の法典論に先鞭を付けられた三浦周行氏や植木直一郎氏が『御成敗式目』の編纂方針の杜撰さを強調し、その体系性を否定されたが為に後学も『御成敗式目』の構造論を軽視してきたという傾向がある。しかし立法者自身によって「関東の鴻宝」であると宣言された『御成敗式目』が何の理念もなく編纂されたとは考え難く、やはり明確な編纂方針のもとに立法作業が進められた考える方が自然であろう。本報告では、『御成敗式目』の構造(条文構成)からまず編纂方針を明らかにし、立法者がどの様な理念で『御成敗式目』を編纂したのか詳らかにしたいと考えている。また、たとい適用対象が限定されたとはいえ、国家の基本法たる律令法があるにもかかわらず、武家が独自の法典を制定しえたのはなぜであったのかといった根本的な問題についても言及するつもりである。

 【参考文献】三浦周行氏「貞永式目」(『続法制史の研究』岩波書店、1925)、植木直一郎氏『御成敗式目研究』(岩波書店、1930)、佐藤進一氏「御成敗式目の原形について」(『日本中世史論集』(岩波書店、1990)、河内祥輔氏「御成敗式目の法形式」(『歴史学研究』第509号、1982)、上杉和彦氏「鎌倉幕府法の効力について」(『日本中世法体系成立史論』校倉書房、1996)、拙稿「『御成敗式目』の条文構成について」(『國學院大學日本文化研究所紀要』第94輯、2004)。


日本中世の幕府「追加法」生成と伝達の構造
前川 祐一郎(東京大学史料編纂所)

 本報告では、日本中世の鎌倉・室町両幕府の制定法たる「追加法」を事例として、立法と法令の伝達という場面における主として二次的な〈法〉の生成をとりあげる。

 鎌倉幕府における「追加」「式目追加」とは、本来、幕府部内の評定において公的かつ二次的な立法行為を経た法令のみをさしていたものと思われる。幕府法令集史料たる「追加集」諸本の多くには、いわば核ともいうべきほぼ共通の配列・内容をもつ法令群が検出されるが、例えばこれらが元来「式目追加」と呼称された法令の一部であったと推定される。原「式目追加」に含まれたであろう法令をみると、その法形式は全て幕府評定などの「事書」であって、将軍の意をうけた下達文書(関東御教書)形式のものはない。「追加」された法令は、通常の法令より広い効力を期待されていたが、法の効力の源泉は、形式面からいって最高権力者の法命令というより、法共同体ないし合議体の共同意思に多くを負っていたと思われる。

 室町幕府の成立後、下達文書形式も含めた前代の法源をほぼ全て「追加」と称するようになる。室町幕府の主導下で「新編追加」のごとき前代法令の類纂型「追加集」が成立したとおぼしいが、法令分類のカテゴリーが政所・侍所といった幕府部局による裁判管轄に対応しているのと同様に、室町幕府では部局の「壁書」という法令の存在形態が特徴的であり、法の故実化ともあいまって法令伝達の独特の閉鎖性にも繋がった。一方、室町幕府法では一般民衆に直接法を示す「高札」という法形式が一定の地位を占めるにいたる。両形式を併用した徳政令についてみると、法令の規制対象たる階層が大まかには二分して意識され、これが法令伝達の二重構造として発現したものとみなされる。この伝達構造を前提に、室町幕府法における新たな法理の形成やその社会的浸透が理解されるのである。


中国古代の律と令──二年律令「関津令」の分析を通して
冨谷 至(京都大学人文科学研究所)

 中国法において、律と令と呼ばれる法典は、基本的成文法としてあまりにも有名であり、またそれは日本法にもつながっていく。

 律とは、刑罰法典(法規)であり、令とは行政法規を中心とした非刑罰法典(法規)であるとの定義は、唐律・唐令、それを踏襲した日本律令にかんしては、間違いないのだが、統一王朝の成文法規が確立した紀元前3世紀の秦および漢においては、唐律、唐令のその定義は当てはまらない。そもそも、秦漢においては、法典としての令典がその段階で成立していたかどうかそれ自体、議論の分かれるところである。

 いったい「令」という法制上の用語は、始皇帝が作った用語であり、それまでは「命」と呼ばれていた皇帝の命令を「令」という語に置き換えたもの他ならない。秦漢時代の「令」の形式と性格を解明するには、したがって皇帝の命令(それは制詔とよばれるものだが)がどの様な形式を有していたのかを明らかにすることにかかる。本発表は、近年湖北省江陵張家山漢墓から出土した「二年律令」と呼ばれる漢の律令のなかで「関津令」との表題をもつ竹簡の分析を通して「令」および「法」の成立に迫りたい。


未生以前の法──中国宋代の断例
川村 康(関西学院大学法学部)

 君主の命令の総体が法であると定義すれば、帝制中国での「法が生まれるとき」は皇帝が命令を下すときということになる。より限定的に、将来的規制力をもつ規範の体系が法であると定義すれば、「法が生まれるとき」は皇帝の命令のなかから将来的規制力をもつ要素を抽出し、体系的に定着させた法典が編纂されるときということになる。帝制中国における法の定義はほぼ後者であるから、将来的規制力を意図しない具体的案件処理のための皇帝の命令は、後者の意味での法となることはない。しかしそれらは、将来類似の案件が生じたときに援用される可能性をもつがゆえに、例として蓄積されてゆく。宋代では例によって法が破られる弊害が指摘されて両者が緊張的対立関係に置かれた一方で、有用な例を選抜した断例が編纂された。先例拘束性は認識されたけれども、例はあくまで法とは峻別される存在であった。明清の条例が例を法に転生させたものであるとすれば、宋代の断例は「未生以前の法」とでも呼ぶべきものであった。この報告は、宋代の断例がもった「法」性と「非法」性を紹介して断例の編纂が「法がうまれるとき」たりえなかった理由を考察し、「法がうまれるとき」という共通課題にいわば裏面から接近するものである。


法が生まれるとき──イスラーム法世界の場合
三浦 徹(お茶の水女子大学文教育学部)

 イスラーム法(シャリーア)は、神(アッラー)が信徒に命じ授けた絶対不変の法であるが、それが適用された地域では、多元的法秩序の形成が見られる。それは、シャリーアが単一の法ではなく、為政者が定めるカーヌーン(世俗法)や地域の慣行・慣習法(アーダ、アダット)によって補完されたというだけではなく、シャリーアそのもののなかに、多元性が内包されている。

 コーランは絶対不変であるが、それは神の則の抽象的な体系であり、具体的な法規範は、コーランやハディース(ムハンマドの言行)をもとに、法学者が合理性と実効性の両面から導き出した。これがフィクフ(実定法)である。そこでは、法学派による解釈の多様性が容認され(ムジュタハダード)、また、地域的な慣行(アマル)やヒヤル(形式的な法解釈による法の潜脱)によって、柔軟な法の適用が図られた。第二に、学者のファトワー(意見書)によって、公益(マスラハ)の観点から法の刷新が行われた。第三に、裁判については、シャリーア法廷とともに行政者によるマザーリム法廷が併存し、また法廷の内外での名士による調停が実質的な力をもっていた。

 「法が生まれるとき」という本シンポジウムの問いに対してどのような答案が書けるのだろうか?ムスリムにとっては、はじめに「神=シャリーアありき」であり、なぜ法があるのか、法の正当性という「基礎づけ」の論理を必要としなかった。それゆえに、相反する原理ですら、神を架け橋とすることで共立が可能になる。しかし現実の平面からいえば、誰もが神を認める(認めたふりをする)ことで成立しているのであり、実定法はそれを前提にした成員間の約束と見ることができる。同じような構造は、裁判におけるシャリーアの形式主義的ルールと法廷の内外での有力者を介しての調停にもあてはまる。両者の接点をいくつかの事例から検討し、比較の観点からイスラーム法秩序の生成を考察したい。