第50回研究大会・報告要旨



◇第1日目 10月5日(土曜日)

共通テーマ「歴史のなかの法曹養成」

 本シンポジウムは、各国(さしあたりは、日、独、仏、英、米の五カ国)における法曹養成制度の歴史的多様性と、そのような多様性を生み出した諸要因についての法制史的研究の一端を報告し、学界における討論のための素材を提供することを課題とする。

 20世紀が閉幕する2年前に始まった日本の司法改革、とりわけ法科大学院設立を中心とする日本の法曹養成制度の「大転換」(一見したところ)の動きが、現在まさに進行中である。このような激動のまっただ中にあっては「歴史学」は無力であり、むしろ「黄昏を待って飛び立つ」べきなのかもしれない。とはいえ、歴史的な変化のなかで、「法曹」、「法律家」、「法的専門職」の性格と機能はどのようであったのか、その資格付与の方法や、法曹養成制度と大学での法学教育のありかた、などについての比較法制史的研究の必要性はすでに以前から指摘されてきた。本シンポジウムの報告者たちも、以前からこのような問題に関心を持ち、研究を進めてきた。

 シンポジウムでは、それぞれの報告者の問題関心と方法にもとづいて、各国の法曹養成システムの成立、定着、変容の長い歴史的プロセスの中で、とりわけ各国独特の「法曹養成類型」を規定することになった時代的一局面を選び取り、当該時代の国家と社会の「構造」、既存の制度への批判や改革運動の担い手、とりわけ法律家層・知識層の間での論争の帰趨に焦点を当てて分析のメスを入れることにする。従って、各国の法曹養成制度史を概観することは時間の関係で割愛したい。各報告が対象とする「時代的一局面」は一つの国についても無数にありうるが、あえて時代や事件を限定せず、それぞれの報告者の選択に委ねた。

 各国において必ずしも同じ時期に同じ問題が発生したわけではないために報告の重点は異なるが、各時代・各国固有の法曹養成システムが機能する上での共通の問題点、例えば法学理論教育と法実務教育の関係(統合型か分離型か)、法曹資格試験制度の方法(国家試験か職業団体による試験か)、国家との関係(国家的養成か弁護士団体主導=法曹一元制か)、ひいては「いかなる資質をもった法律家が各国各時代において期待されたのか」といった問題点についての歴史的・具体的な事実確認ができるのではないか、そして各国の法曹養成制度の特徴とその歴史的基礎がある程度明確になるのではないか、と考えている。


「趣旨説明と課題の限定」
黒田忠史(甲南大学)

 手短かに、上記のようなシンポジウムの趣旨について説明し、課題の限定を行う。それとともに、報告と討論の共通の「土台」をあらかじめ定置しておくために、個別報告の対象となる五カ国の歴史的な「法曹養成類型」を図式的に提示した資料について説明する。その詳細な説明には長時間を要するため、基本的には「文書報告」としたい。当日会場で最新版の「報告資料」を配付するが、前もってインターネット上で、シンポジウム準備会のレジュメや報告資料などとともに公表しているのでご覧いただき、改訂作業の過程でご批判とご教示を賜れば幸いである。(HPアドレス http://www.juri.konan-u.ac.jp/home/kurodaの中の「比較法曹養成史研究会」のページ)


「革命後フランスにおける司法官・弁護士養成制度の変遷」
野上博義(名城大学)

 (1) 19世紀におけるフランスの弁護士像
 革命前の制度であるアヴォカとプロクルールの二元主義は、フランス革命期に抱かれた幻想的市民像によって否定された。プロクルールは代訴人という新しい名称によって生き延び、やがて革命前の売官制そのままに株保有者の地位を得るまでになるが、アヴォカは、民法典の編纂と法学教育の組織という外的環境が変化し、学位という新しい職業身分的要件が復活することによって初めて水面下から浮上することができた。学位に担保された職業的価値というこのアヴォカ復活の経緯が、結果として、法学士であることの代名詞にすぎないアヴォカ像を作り上げ、19世紀を通じて、5種類のアヴォカが生み出されることになる。「称号としてのアヴォカ」「研修を受けるアヴォカ」「研修を終えても登録しないアヴォカ」「登録しても活動しないアヴォカ」「活動するアヴォカ」である。その一方で、フランス人の日常生活におけるアヴォカの存在は、法的専門業としては、公証人、あるいは非公認の法律代行業である事務代理人に比べて、常に影の薄いものであり、法学教育が「市民としての法学一般教養の涵養」を目指したものであったことと合わせて、まさに古典的な自由職業の典型というアヴォカ像が1920年まで維持されることになる。このアヴォカ像を規範化したものが、19世紀のアヴォカに何よりも求められた「職業倫理」であり、この精神性が、年金等による職業外での経済的安定性と並んで、アヴォカの最も重要な資質を構成することになる。
 (2) 1920年に始まるアヴォカの純化と、CAPAの誕生
 1920年、政令によってアヴォカの称号が整理されたが、翌1921年に組織された全国アヴォカ協会ANAは、名実共に「名誉ある称号としてのアヴォカ」から脱却し、「職業としてのアヴォカ」を確立するために、二方面の活動を展開した。一つが、他の法律職(代訴人、商事裁判所弁護人、「治安判事裁判所弁護人」)との差異の明確化と、それらの法廷からの排除という「外に向けての純化」であり、もう一つは、アヴォカ志望者に対して特別な養成課程を準備し、法学士とは別の資格要件を定めるという「内に向けての純化」であった。アヴォカ内部から始まったこの「職業の純化」の方向に、1940年ドイツへの降伏後に誕生したヴィシー政府の「国民革命」による職能団体主義と、人種的「排除の論理」が歩みを揃えることによって、150年近く続いた法学士号を最大の要件にするアヴォカ養成方法が変革された。1941年に始まるアヴォカ職適正証明書CAPAの制度である。戦後、ヴィシー政府下での諸政策は多くが否定されたが、この制度は残り、形の上では現在にまで続いている。


「19世紀後半イギリスの法曹養成制度改革論議とその帰結」
深尾裕造(関西学院大学)

 1868年リーズ法律家協会でのジェヴォンズ報告に端を発した法科大学設立運動は、当時のマスコミも巻き込む大規模な社会運動として盛り上がり、1872年には法曹院も対抗策として、バリスタ資格試験の義務付けを余儀なくされる。しかし、この運動を背景に提案されたセルボーン法案は、ロンドン大学の反対に加え、70年代後半の運動の急速な衰退によって廃案となる。日本からの留学生入江(穂積)をドイツ留学に向かわせたのも、このイングランドにおける法学教育改革の挫折であった。
 長期的な展望からすれば、イングランドの法曹養成システムは、1846年法学教育議会特別調査委員会報告以降の法学教育改革運動を通して、公開試験制度を伴うバリスタ、ソリシタの二元的法曹養成システムとして定着することになる。この定着過程の背後で戦われた法科大学設立運動の盛衰は、1846年地方裁判所法成立から1875年の最高裁判所法成立に至るイングランド司法の近代化とそれに対応する中央、地方の法曹の分業編成の見直し、再編、さらには、近代的リーガル・プロフェッションとしてのソリシタと伝統的乃至ジェントルマン的プロフェッションとしてのバリスタとの緊張的対抗関係を含みながら展開したのである。
 その意味で、この期の運動は、ソリシタが近代的プロフェッションとして自立することによって一応の終着点に達する。しかし、法学教育という視点から見れば、それによって終着点についたわけではなかった。ソリシタ資格試験の高度化も、バリスタ試験の資格試験としての義務付けも、クランマーと称される私塾の詰め込み教育の繁栄をもたらしただけであった。ジェントルマン的統治者養成理念の下で法学教育の位置付けは依然として低いままであった。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、ソリシタ教育と結びついて地方大学法学部が設置され、大学法学教師が一定の職業身分として成立してくることになる。ポロック、ダイシー、ジェンクスらによって大学法学教師が最後のリーガル・プロフェッションとして形成され、二〇世紀の新たな法学教育の礎を作られることになる。しかし、伝統的大学における法学教育の位置付けの低さが克服されるには、なお半世紀以上の歳月を必要としたのである。


「近代日本の法曹養成と法学教育――1910〜20年代(明治末〜大正期)の改革論議」
三阪佳弘(龍谷大学)

 日本における判事・検事・弁護士(←代言人)養成は、1880年代以降の代言人試験制度、判事登用試験制度の導入を出発点とする資格・任用試験制度を軸にしながら、官私立の法学教育機関の整備が促進されていくという形で展開してきた。判事・検事・弁護士としての能力を、国家が設定する一定の基準、すなわち「試験」によって計ることを原則にしたのである。その際、判検事には、その基準にたえられるだけの質を持った高等教育機関における法学修学歴要件が求められた。しかし、帝国大学法科大学卒業生については、裁判所構成法上の第1回判検事登用試験が免除されて司法官試補に任用される特権が付与される一方で、台頭する私立法律学校については同上第1回試験受験資格を与えるにふさわしい法学教育機関を政府が指定する「司法省指定校」あるいは「認定校」制度がとられた。このことは、帝国大学を頂点とする諸法学教育機関を、国家の設定する基準によって制度的に差別化する構造をもたらした。以上の判検事任用試験に対して、弁護士資格試験については、その受験資格に関して法学修学歴要件すら求められなかった。この差異化は、在朝法曹である司法官と在野法曹である弁護士との間の格差構造と表裏一体の関係にあった。
 このような官私立法学教育機関間と在朝・在野法曹間の格差構造に対する批判的認識が具体化するのが、明治末年に激しくなる帝国大学法科大学卒業生無試験特権廃止運動である。これを契機にして、明治末年から大正期にかけて、官私立各法学教育機関の法学教育課程→資格試験・任用試験→実務修習課程といった一連の法曹養成のあり方について、現状や制度設計が議論された。その一つの帰結として、1914年の裁判所構成法・弁護士法改正と1918年高等試験令制定による判事・検事・弁護士に関する統一的資格試験制度が導入され、受験資格の開放性・平等性を図るために、帝国大学法科大学卒業生無試験特権が廃止されるとともに法学修学歴要件が削除された。
 この大正期の制度改革については、すでに数多くの先学の研究があるが、本報告では、弁護士―政府―大学(帝国大学・私立法律学校)の三者のそれぞれの現状認識・改革構想を検討することを通じて、法曹養成過程と法学教育課程との制度的連関をどのように制度設計するのかという点に重点を置いて、同改革の歴史的意味を考えたい。


「アメリカにおけるリーガル・プロフェッションの生成」
松浦好治(名古屋大学)

 アメリカでは、国家(連邦政府や州政府)が法律家養成に直接関与したことは一度もない。法律家の質の管理、法律家の職域、社会的役割などすべて法律家団体のイニシアティブで行われてきた。しかし、アメリカの法律家を代表するとされるアメリカ法律家協会(A.B.A)は、任意加入団体であり、法律家の過半数はそのメンバーではない。それにもかかわらず、アメリカにおいて、なぜ法の統一的運用が可能であり、法律家の社会改革に対する影響が大きくなって行ったのか。この報告では、19世紀後半にどのようにして高度なリーガル・プロフェッションが生み出されたのかに焦点を合わせながら、法学教育の革新や法律家集団が法理論や法実務に影響を及ぼすメカニズムについて報告することにしたい。


「ドイツにおける法曹養成の光と陰」
ヴォルフガング・ゼラート(ゲッチンゲン大学名誉教授)

 「この報告では、ドイツにおいて法律家(ユリステン)が占める傑出した地位について述べることから始めて、成功と失敗に満ちたドイツの法曹養成制度の歴史について論じたい。そのために、法律学の学修のあり方について投げかけられてきた批判や数多くの改善案、そして様々な改革について、とりわけ学問の伝承と法実務や職業活動のための教育との緊張関係という問題に的を絞って、より考察を深めたい。講演の最後で、立法者によって企図されている2003年に向けた法学教育改革について触れ、私の対案を提示する。」(仮訳:黒田)




◇第2日目 10月6日(日曜日)

「シチリア王権と教皇権」
阪上眞千子(龍谷大学)

 ドイツ皇帝兼シチリア王であるフリードリッヒ二世と教皇権との関係については、古典的な研究は、フリードリッヒの治世後期における教皇権との争いを中心に論じる傾向があった。しかし、彼の治世を幾つかの時期に区分して見ていけば、彼と教皇権が常に対立関係にあったわけではないことがわかる。また、上のような見解は、皇帝権と教皇権という中世における普遍的権威をめぐる理念的対立という、ドイツ中心の、叙任権闘争理論を延長させた視点に基づいているため、シチリア王権と教皇権との関係にこの理論をそのまま援用することができるかどうかは、留保して考えねばならない。報告者が以前論文において述べたことであるが、フリードリッヒは治世のすべての時期に渡って教皇権と闘争状態にあったのではないし、また彼がすべての教会と対立関係にあったわけでもなかった。すなわち、王国内の在地の教会権力、特に大司教や司教とフリードリッヒは一部を除いて良好に近い関係にあり、それらの教会権力は王権をさまざまな分野において支える活動を行っていたのである。
 以上のことを前提とした上で、本報告は、皇帝権ではなくシチリア王権と教皇権との関係に焦点をあてることにする。まず第一に注目すべき事柄としては、シチリア王権が教皇権との関係において、他の西欧諸国の王権とは異なる性格を有しているということである。すなわち、ノルマン朝時代にシチリア王は教皇使節職を教皇によって認められており、フリードリッヒもこの職務を根拠として王国の各教会への介入を行った。そのため、この職務の具体的な意味内容の解明が必要である。第二に、シチリア国王はもともとノルマン朝時代に自らの権力を、教皇による受封によって根拠づけた。このシチリア王と教皇とのレーエン関係がノルマン朝以降どのように変質していったかについても時代を追って考察していく。


「秦律・漢律における未遂・予備・陰謀罪の処罰」
水間大輔(早稲田大学)

 犯行を意図していたものの、意図した通りの結果が成就するに至らなかった場合、つまり犯行が既遂に至らず、未遂ないし予備・陰謀の段階で終了した場合、中国古代の秦律・漢律ではいかなる扱いがなされていたのであろうか。例えば、後世の唐律では殺人罪について、@犯行が「謀」(ほぼ予備・陰謀に相当)の段階にとどまる場合、A傷を負わせたものの、相手を殺害するに至らなかった場合、B予定通り殺害した場合、というように、犯行の発展段階に応じて三つの区分を設け、それぞれ異なった刑罰を科している。
 それでは、秦律・漢律ではどのように扱われていたのかというと、かつて秦律・漢律の条文は、わずかに文献史料に引用されているものしか知られておらず、この問題について検討した研究は皆無であった。一九七五年に湖北省雲夢県睡虎地の第十一号秦墓から、戦国時代後期の秦の法制史料を大量に含む竹簡群(いわゆる「睡虎地秦簡」)が出土すると、この問題を扱った研究も現れ始めたが、それほどたくさんの史料があるわけではなかった。
 ところが、一九八三〜八四年にかけて出土しておりながら、二〇〇一年になってようやくその図版と釈文が公表された「二年律令」には、殺人・劫人・盗鋳銭など、さまざまな犯罪の未遂・予備・陰謀について定めた条文が含まれている。なお、二年律令とは、湖北省荊州市荊州区張家山の第二百四十七号漢墓から出土した竹簡文書であり、前漢初期の呂后二年(前一八六年)のものと見られる律令の条文を内容とする。
 そこで、本報告では、二年律令中の各犯罪の未遂・予備・陰謀について定めた条文を詳細に分析するとともに、睡虎地秦簡についても合わせて再検討を行うことによって、秦律・漢律ではいかなる犯罪が、いかなる段階から処罰の対象とされ、いかなる刑罰が科されていたのかを明らかにする。そして、秦律・漢律が未遂・予備・陰謀に対して、一般にどのような処罰を行う傾向にあったのかを把握し、そのような措置が当時いかなる意味を持っていたのかについて考察したい。


「ディオクレーティアーヌス帝は「古典法」墨守者か?――『勅法彙纂Codex』を手がかりに――」
林 信夫(京都大学)

 古代ローマ時代において「法学隆盛時代」を出現させたいわゆる「古典期」およびその法たる「古典法」は、235年のセウェールス朝の終焉とともに終わりを告げ、その後ローマ文化は衰退の一途をたどり、その一環としてのローマ法も法技術性と法論理性の点などでそのレヴェルを低下させていったものの、6世紀のユースティーニアーヌスIustinianus帝の法典編纂期にその古典主義の下で復活させられ、中世以降のヨーロッパ世界に受け継がれていったと、伝統的には考えられていた。その際同時に言及されてきたのが、235年以降の政治的・社会的混乱を治めて284年に帝位に就いたディオクレーティアーヌスDiocletianusが「古典法」を維持したこと、さらに、その後を継いで306年に帝位に就いたコーンスタンティーヌスConstantinusが全く新たな精神を持った「古典期後の法」を形成し始めたということであった。
 しかし他方で、ディオクレーティアーヌス帝が帝政後期のいわゆる専主政国家樹立のために種々の改革をなしたことがローマ史または国制史の側からは認められている。しかも、とりわけ1970年代以降のペルージャでの帝政後期に関する国際学会の活動により、当該時代に関する個別研究の成果が着実に蓄積し続けている現状のおいて、以前のような理解が維持され得るのかどうか検討されるべきであろうと思われる。 本報告では、その第一歩として、ペルージャでの活動を前提にしながら、ディオクレーティアーヌス帝は真の意味で「古典法」を維持し続けたのかどうか、それに対してコーンスタンティーヌス帝が全く新しい法を創設したのかを、『勅法彙纂』に採録されている彼らの勅法や勅答全体に光をあてることにより、検討することとしたい。


「東亜研究所第六調査委員会について――都市不動産慣行調査を中心として――」
加藤雄三(総合地球環境学研究所)

 周知の通り、東亜研究所は1938年9月に設立され、当時国内最大規模の国策研究機関として調査・研究活動を行い、敗戦に伴って1946年半ばに解散した。このわずか8年弱の活動期間中に東研が行った調査の内、法制史専攻者に最も知られているのは支那慣行調査であろう。
 この調査は、東研が外部の研究者を動員して設置する調査委員会の内、第六調査委員会が満鉄とともに企画して実施した。現在では「中国農村慣行調査」と完全に同一であると看做されがちであり、東研が満鉄に委託する形式をとって行われた本調査活動が1.土地慣行、2.商事及金融慣行、3.鉱工業慣行、4.領事裁判並に租界に関する調査研究、5.その他の公私法制度という諸項目を以て立案され、後に六項目に再編成された上で調査・研究が遂行されたことはさほど知られていない。その理由は、戦後に報告或いは発言した研究者が農村慣行調査のみに触れ、それ以外のことは歴史の中に埋もれてしまったことにあるだろう。本報告は上述各調査の中でも、顧みられることがほとんどなかった4の系譜に属する支那都市不動産慣行調査を主な研究対象とする。
 第六調査委員会の人員として都市不動産慣行調査に深く関わっていたのは、東京帝大法学部の関係者、特に山田三良、我妻栄、四宮和夫らであった。戦後、彼らが東研との関わりを述べることがあったとは聞かない。しかし、『東亜研究所「支那慣行調査」関係文書』マイクロフィルムには、彼らの執筆による6リールに及ぶ「『支那都市不動産慣行調査報告書』草稿」が収録されている。その重要性については井村哲郎、江副敏生も指摘している。即ち、「草稿」には租界における不動産慣行が地域ごとに体系化して叙述され、当時の問題を総体的に知ることが出来る。また、档案史料原件も綴じ込まれ、報告としてだけでなく、資料としての意義も有する。このマイクロフィルムと当時の刊行物などによりながら東亜研究所第六調査委員会という組織の沿革・意義と六調において行われた不動産慣行調査研究報告の性質を述べることを本報告は目的とする。


「戦後占領期における刑事司法制度改革とGHQ」
出口 雄一(慶應義塾大学)

 戦後占領期は、GHQによる強力な政治的主導の下に抜本的な法制改革が展開した時期であると通常理解されている。そのこと自体に誤りは無いが、綿密な資料的実証に裏付けられた占領戦後史学の今日的認識は、より複雑な歴史の実相を我々に伝える。本報告では、現代日本法体制の出発点ともいえる同時期を法史学的対象として認識し、再構成するための諸前提を、特に刑事司法制度の改正の経過中に、具体的に探っていくこととしたい。
 昭和20(1945)年8月に始まった日本占領をおおまかに区分するならば、その最初の3年余は「非軍事化」と「民主化」の時代であったとされる。司法に関しても、占領軍要員や連合国人に対する裁判権の制限等、占領という特殊な状況に対応したシステムがその初期からGHQによって構築されていたが、その一方で、我が国の既存の制度を改正する動きもまた生じていた。日本の刑事司法改正の基本方針をめぐっては、GHQ内部で、民政局(Government Section)と民間諜報局(Civil Intelligence Section)が深刻な意見の対立のなかにあった。ところが、昭和21(1946)年夏頃、GHQにおける法制改革の主導権が民政局の掌中に帰すと、同局の方針に則り日本側の法政策意見が徴される余地が生じ、結果として、日本側の歴史的・主体的事情が制度改革の上に確かな形として反映されることにもつながった。この一連の経過では、民政局に配属されたオプラー(A.C.Oppler)やブレイクモア(T.L.Blakemore)といった、それぞれ、大陸法系の実務経験に基づく深い法的素養と、戦前期の日本への留学体験により身につけた日本法に対する豊かな識見に裏打ちされた、二人の法律家の存在が極めて重要な役割を果たすのである。本報告では主としてGHQ側に残された資料に依拠して、その論証を試みたい。