法制史研究 68号(2018年)
和文要旨


【論説】

中世の「土倉」に関する解釈の淵源について

酒匂 由紀子

 中世の「土倉」を素材にした研究の分野は、法制史のみならず、経済史・都市史など多岐に亘る。現在の「土倉」研究に関しては、戦前から戦後にかけて活躍していた豊田武や奥野高広の論に立脚しているところがある。
 両氏が述べる「土倉」とは、「高利貸資本家」、土倉は借上にかわる「高利貸の代名詞」、「金融機関」、「質営業の代表者」などであるとする。このことは、『国史大辞典』や『日本国語大辞典』にも引用されており、定説となっている。
 しかし、「土倉」による質物を取って銭を貸し付けたり、多額の請料を支払って荘園の代官になるなどの行為は、京都の僧侶・在地の僧侶・土豪・商人のほか、武家や公家、またそれらの雑掌など多種多様の者にも確かめられる。とすれば、当時においてこうした行為は、誰でもしうるものであったと捉えられるのであり、「土倉」もその行為をした者の一人だったと捉えるべきだろう。にもかかわらず、従前の研究は、土倉を金融業者や質屋で商人であると分類してきたのである。
 かかる状況を踏まえ、本稿は、「土倉」が上記のように解釈されるようになった理由について、豊田や奥野が前提にした解釈の淵源を探り、今後の諸研究に対し、「土倉」を扱う際にどのような点に気をつけるべきかということについて提起するとともに、古くからの通説も再検討すべきなのではないかという問題提起をすることを目的とする。
 結果は次の通りである。先述したような土倉の解釈は、その淵源をたどると江戸時代の新井白石によってなされたもので、しかも史料の誤読から生じたものであったことがわかった。その解釈は、頼山陽に引用され、明治時代の法制史・商業史研究者である横井時冬によってさらに引用された。横井が著わした『日本商業史』は、批判対象になることなく、百科事典であり、大正時代には史料集でもあった『古事類苑』にも採録され、また他の研究者も引用したことによって拡散し、現在まで継承されてきたのである。

●キーワード:土倉、金融業者、質屋、室町幕府、土倉役、横井時冬


清代モンゴルにおける犯罪者の捕獲期限

萩原 守

 中国の伝統法には、一定の期限内に犯罪者を捕獲することができなかった官員や兵士を処罰するという法が存在していた。この種の法は唐律の中に存在していて、明律、清律にも伝わった。清律のこの法は、一般モンゴル人向けに漢蒙満三種類の言語で定められた蒙古例法典である『理藩院則例』にも、嘉慶年間以降、導入された。この法の起源が中国の伝統法であるということが本稿の最初の結論である。以下、本稿では、モンゴル国立中央公文書館所蔵の檔案史料を利用して、この法の具体的な適用事例を詳細に検証していく。
 光緒三(一八七七)年一〇月一四日に、サイン・ノヨン・アイマク地域に領地を有するエルデネ・バンディダ・ホトクト(活仏)のシャビ(隷属民)であるオドセルが、ジェブツンダンバ・ホトクト(外モンゴル最大の活仏)のイフ・シャビ(偉大な隷属民の意)であるダグバを殺すという殺人事件が発生した。この殺人犯オドセルは、その後庫倫(現在のウランバートル)の監獄からどこかへ脱走してしまった。そこで庫倫辦事大臣(満洲大臣)がエルデネ・バンディダ・ホトクトの旗の管理者ダグダンオチルに期限内における再捕獲を命じた。しかし、捕獲を担当した旗内の長官ロプサンドルジと兵士三名は、第一回目の期限三ヶ月、第二回目の期限六ヶ月に続いて第三回目の期限九ヶ月をも守ることができず、庫倫辦事大臣が道光二三年版『理藩院則例』の当該条文を適用して、彼ら四名に処罰を加えた。その際、モンゴル文へと逐語訳されて盟長を介して旗の役所へと送られた判決文がやや口語風のモンゴル語表現を有しているため、我々は大臣が参照・引用したのが満文版『理藩院則例』であったと判断することができる。これが第二番目の結論である。
 この事件で興味深いのは、法律条文の引用方法である。判決文では大臣が必ず条文をまるごと引用しているように読めるが、その実際の引用方法としては、条文中の必要部分のみを選び取ったり他の条文の内容をつなぎ合わせたりして、あたかも一つの完結した条文へと編集するかのような手法で引用していたことがわかる。この引用方法の解明が、第三番目の結論である。
 結局、長官ロプサンドルジと兵士三名は、第四回目の捕獲期限一年以内にもオドセルを捕えることができず、庫倫辦事大臣によって道光二三(一八四二)年版『理藩院則例』の当該条文の第四回目期限の部分が適用されて、処罰を受けることとなった。旗の管理者ダグダンオチルも、同じ条文が適用されて処罰を受けた。以上、この逃亡犯オドセルの事件で、道光二三年版『理藩院則例』当該条文の第三、四回目の期限に関する部分と、捕獲できなかった責任者に関する部分とが、ラマ旗のシャビである官員と兵士、さらにはラマ旗の管理者にも適用されたことがはっきりと確証された。これが本稿の第四番目の結論である。


ドイツ騎士修道会対ミュールハウゼン市―一四世紀ドイツの国王裁判権と教会裁判権

田口 正樹

 本論文は、ドイツ騎士修道会とドイツ中部テューリンゲン地方の国王都市ミュールハウゼン市との間の一四世紀における対立を取り上げて、紛争解決のための諸手段と国王裁判権の活動を確認し、特に教会裁判権との関係で国王裁判権の作動環境の一つの側面に注意を向けようとするものである。ドイツ騎士修道会はとりわけ一三世紀にドイツ各地に多くの所領を獲得し、ミュールハウゼンにおいても有力であったが、王権から比較的疎遠になりつつあったミュールハウゼンの市民団体としばしば対立した。皇帝ルートヴィヒ四世の時代の市内の学校をめぐる両者の対立は、皇帝による騎士修道会のための介入を経て、騎士修道会に有利な形で終わった。皇帝カール四世の時代の市内における死者の埋葬などをめぐる対立では、当初皇帝が委任裁判官に任命した司教によってやはり騎士修道会に有利な判決が下されたが、市側は学識法曹による鑑定意見を得て、マインツ大司教のもとにある教会裁判権への訴えによって対抗した。現地における和解の試みや、アヴィニヨン教皇庁を含む複数の教会裁判所における手続を経て、争いは結局皇帝の仲裁判決によって、市側に有利な形で決着した。こうした紛争の経緯が示すように、ルートヴィヒ四世の時代と対比して、カール四世の時代には教会裁判所への訴えの可能性が存在しており、国王裁判権もそうした環境のもとで作動していたことに注意する必要があろう。

●キーワード:中世後期、国王裁判権、教会裁判権、鑑定意見、仲裁


【学界動向】

南北朝期室町幕府研究とその法制史的意義―所務沙汰制度史と将軍権力二元論を中心に

亀田 俊和

戦後における室町幕府研究は、佐藤進一が基本的な枠組みを作った。佐藤は、初期室町幕府の体制を、初代将軍足利尊氏と弟直義が権限を分割して統治する二頭政治であるとした。また、尊氏の行使した恩賞充行権と軍事指揮権を「主従制的支配権」、直義の所領安堵権や所務沙汰権などを「統治権的支配権」と定義し、多角的に論じた。
 佐藤以降、室町幕府訴訟制度史研究は、直義が管轄した所務沙汰研究を中心に発展し、足利義詮の親裁権強化の過程などが解明された。だが、所務沙汰研究は二一世紀に入ってからは停滞している印象を受ける。その最大の理由は、所務沙汰研究が「手段」ではなく「目的」と化したからだと考える。
 一方、将軍権力二元論そのものについても、幕府の諸権限のほぼすべてが主従制的支配権と統治権的支配権の両方の要素を併せ持つなど、少なくとも実証的にはほとんど成立しないことが明らかとなっている。しかし実証的な矛盾点を指摘した研究者自身が、なぜか二元論を強力に支持する奇妙なねじれ現象が起こっている。
 右に述べた逼塞状況を打開するために、統治権的支配権よりも下位に位置し、統治権的支配権によって克服されるべき存在と決めつけられて軽視されてきた主従制的支配権、中でも恩賞充行を検討することを筆者は提言した。筆者の執事(管領)施行状研究は、右の問題意識から行われた研究である。本稿ではその概要を紹介し、その結論も踏まえて初期室町幕府の〝権限分割〟および足利義詮の親裁権強化の問題を改めて考察した。
 初期室町幕府の体制は、足利直義が事実上の最高権力者「三条殿」として統治する体制であった。尊氏がわずかに保持した恩賞充行権等は、既存の所領秩序を変更し、新しい秩序を「創造」する機能であった。直義の権限は、既存の秩序を維持する、言わば「保全」の権能である。初期室町幕府は、南北朝期特有の状況によって、政治権力の創造と保全の機能が比較的明瞭に分離した政体だったのである。
 足利義詮の将軍親裁権強化については、室町幕府の諸政策のほぼすべてが恩賞化した現象であったと考える。観応の擾乱以降の幕府の危機に直面し、直義の地位を継承していた義詮は、恩賞充行を強力に推進するとともに、他の諸政策も可能な限り恩賞化することで支持の回復に努めた。御前沙汰による寺社本所領保護政策も、その一環に位置づけることができる。
 最後に、将軍権力二元論を生み出した佐藤の着想の由来について簡単に考察した。マックス・ヴェーバーの支配原理の三元論が、この学説に大きな影響を与えたことは疑いない。また「主従制的支配権しか保有していない未熟で原始的な権力が、先行国家から統治権的支配権を授与されることで一人前となる」とする国家観については、戦前の中田薫と牧健二の論争の影響が大きいと考えられる。ヴェーバーから何らかの示唆を受けて草創期室町幕府の支配原理に関する理論を完成させた佐藤が、それを草創期鎌倉幕府に遡及させ、理論的説明を試みた様相が浮かび上がるのである。


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